本 Archive

滅私奉公

amazon:[文庫] 儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)  米澤穂信『儚い羊たちの祝宴』を読んだ。
 ミステリを書くうえで守らなければならないとされるものに、「ヴァン・ダインの二十則」という規則がある。「ノックスの十戒」と並んで有名ではあるが、実際にこれらを守らなければミステリを書けないというわけではない。しかし、ミステリというジャンルのあり様を捉えてはいるので、拘束性こそないけれど目を通すだけの価値はある。
 その「ヴァン・ダインの二十則」に「使用人を犯人にする勿れ」とある。これには使用人に対する、当時のミステリ実作者の意識が窺える。物語の本筋に使用人ごときが絡むのは許されない。彼らはそれぞれが家具のひとつでしかないのだ。家具が意思を持って、まして人を殺すか?
 いやはやどうにも時代遅れ。人を人とも思わない云い様だが、これは時代と社会の文脈のなかで形成された考え方だ。時代が移り変わり、社会のあり様が変われば、その時代と社会に則した考え方が生まれてルールが必要とされる。今の時代には、この時代と社会における文脈がある。使用人を描くにもそこに人間性が求められて然るべきだ。それがミステリという、甚だ人工的な意匠の物語であっても。
 これを踏まえての本書はと云うと、これが使用人大集合。そして彼らの多くは家具であり、職能そのものである。
 あれ? やっぱり使用人は使用人でしかないの? 時代と社会の文脈は?

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ゴールド・エクスペリエンス

amazon:[新書] 荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論 (集英社新書)  荒木飛呂彦『荒木飛呂彦の奇妙なホラー映画論』を読んだ。
 荒木飛呂彦と云えば日本を代表する漫画家のひとり。その代表作「ジョジョの奇妙な冒険」は週刊少年ジャンプに1987年から連載されている人気漫画である。現在は掲載誌がウルトラジャンプに移って、第八部が好評連載中だ。
 その独特なスタイルでファンを獲得する荒木飛呂彦作品だが、魅力のひとつに登場人物の台詞の印象深いことが挙げられる。「ジョジョの奇妙な冒険」で使われた台詞を下敷きにした文言が、インターネットの世界でミームとなっている。登場人物のひとり、ジャン=ピエール・ポルナレフは何度「チャチなもんじゃあ断じてねえ。もっと恐ろしいものの片鱗」を味わったことか。
 画風だけでなく文章にも独特な魅力を有する荒木飛呂彦が、もし漫画以外の作品を物したらどんな読み物になるのだろうか? 読書好きの" if "が実現したのが本書だ。
 小説ではない。これは当然。叙述トリックを扱うのでないかぎり、小説にできるようなネタは漫画に還元するだろう。荒木飛呂彦は漫画家なのだから。

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忘れられた約束

amazon:[文庫] 怪談実話 無惨百物語 ゆるさない (MF文庫ダ・ヴィンチ)  黒木あるじ『怪談実話 無惨百物語 ゆるさない』を読んだ。
 前回、本書についてというよりも本書作者について、その語り口が読者の視覚に訴えかけることを述べた。これに加えて、怪談とはパフォーマンスであり、何を語るかより如何に語るかが問われる、とも。そのうえで独特な語り口を持つ作者の怪談本には魅力がある。買って読んで呪われてしまえ。というような内容の記事に仕上げた。最後のは我ながら酷いな。まあ、呪われた者同士で仲良くしましょう。
 怪談は如何に語るかが重要だとは云え、内容をおざなりにしてよいわけではない。というわけで、今回は内容に言及しようかな、なんて思ったリなんかしちゃったりして。
 ちなみに広川太一郎的なカンジでは書いてません。

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視える怪談

amazon:[文庫] 怪談実話 無惨百物語 ゆるさない (MF文庫ダ・ヴィンチ)  黒木あるじ『怪談実話 無惨百物語 ゆるさない』を読んだ。
 作者は兼業作家という。現在も東北を中心に映像関係の仕事に就いている。映像関係の仕事に就いているということで、怪談系のイベントでは黒木あるじ氏の自主制作映像が上映されることもある。それらの映像は、さすがはプロと唸らされる出来映え。素人とプロの違いは、撮影技術の差もさることながら、やはり編集の技術にこそ表れるということが実感できる。プロは撮影時に既に編集を考えているのだろうな。ファインダーを覗きつつもその頭のなかではだいたいの絵コンテができているのだろう。
 この「絵コンテができている」というのが、黒木あるじ怪談を読むうえで重要なキーワードとなる。
 とにかく視覚に訴えかける文章なのだ。目は文字を追っているのに、意識の上では描写されている内容をはっきりと思い描いている。それは描写されている光景をあたかも実際に視ているかの如く。掌編でひとつの場面を長々と描写するのは全体のバランスを崩すことになる。つまり、作者の視覚に訴えかける文章は、分量は少ないにもかかわらず情景描写には少しの不足も感じられないということだ。それには視せたいものだけを選んで提示するということを成功させなければならない。ここに映像のプロフェッショナルの真骨頂がある。効果的に視せるために余計なカットを挿入しない。きちんと絵コンテを切って、執筆に臨んでいるのだろう。
 視覚的に怪談を楽しむ。この一点のみを挙げても、黒木あるじ作品には読む価値がある。特に本書は東日本大震災後の刊行ということで、本拠地を襲った未曽有の災害に作者の執筆活動が影響を受けないはずがなく、それを読み取るためにも黒木あるじファンとしては必読の一冊と云えよう。

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愛という名の病

amazon:[文庫] 愛の続き (新潮文庫)  イアン・マキューアン『愛の続き』を読んだ。
 イアン・マキューアンの作品を読むのは本書がはじめてである。その著作『贖罪』を映画化した「つぐない」は観た。「つぐない」に物語の持つ"騙り"の本質を見出して、このブログに記事を書いた。私が「つぐない」で注目したことが原作小説を正しく反映するものであるならば、イアン・マキューアンという作家は端倪すべからざる存在だ。
 シアーシャ・ローナンを主演と呼びたい「つぐない」では、タイプライターのあたかも言葉を紡ぐかのような打刻音が、文字通り作品の通底音となっていた。そこでは過去の事実に対する意味付けや"物語"の成立の為の事実の捏造が施され、最終的にひとりの小説家の悔恨に満ちた人生の最期に向けて、ささやかではあるけれど確かな希望を与えていた。希望を求めるのも与えるのも小説家本人なのだけれど。
 物語における描写が事実に基づいているか否かは、物語の作法において必ずしも問われなければならないものではない。このことを踏まえなければ真の姿が見えてこない物語がある。私にとっての「つぐない」がまさにそうであった。だから長々と自分の推理を語って悦に入るという、ホントに恥知らずなことをした。面目ない。
 懲りてないけど。

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黄金の夜明けは迷いの霧を晴らす

amazon:[単行本] 恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-  上遠野浩平『恥知らずのパープルヘイズ -ジョジョの奇妙な冒険より-』を読んだ。
 荒木飛呂彦のライフワークである「ジョジョの奇妙な冒険」は、現在第八部「ジョジョリオン」がウルトラジャンプで連載されている。第一部から第六部までは週刊少年ジャンプに連載していたが、第七部から月刊誌のウルトラジャンプに移った。
 長期間、しかも掲載誌を移ってまで連載が続いているのには理由がある。単純明解なそれは、人気があるということ。多くの読者を獲得するほど人気があるのは、なぜか? これも単純。面白いからだ。しかし、ただ面白いだけか、というとそうではない。
 世界観、舞台設定、人物造型、台詞まわし、展開もさることながら、絵柄といいコマ割りといい擬音といい、すべてが独特。荒木飛呂彦印としか云えないスタイルが、多くの読者を魅了している。面白い漫画ならば他にもあるし、それらは読まれている。しかし「ジョジョの奇妙な冒険」には、荒木飛呂彦による作品という、他の漫画にはない、唯一無二の価値がある!

 このたび、「ジョジョの奇妙な冒険」第五部の「黄金の風」スピンオフ作品が上梓された。コマ割りと視線誘導で動きを読ませる漫画の、特に肉体や"スタンド"の躍動を描く「ジョジョの奇妙な冒険」の、独特な世界観を下敷きにした小説だ。格闘技を題材にとった小説ですら肉体表現の描写に違和感を覚えることがあるのに、このうえ"スタンド"を説明する必要がある。特に個々の"スタンド"について、それがどのような姿形を持ち、どのような働きをするものなのか、読者にイメージさせなければならない。これは困難を伴う仕事だ。作者はよくもまあ手を出したものだ。
 ここで簡単に説明すると、"スタンド"とは「幽波紋」と表される。どういうものかと云うと、超能力や超常現象に姿形を与えたものと理解してよい。サイコキネシスとは、人には見えないスタンドが物を動かすこと。遠隔操作できるスタンドの目を通して眺めたことを、目隠ししたまま答えれば千里眼と呼ばれる。発汗や体温の上昇、脈拍の変化を微細に測ることのできるスタンドなら、テレパシーを装うことが可能だ。人体消失も自然発火現象も呪いもスタンドで表現できる。日本の伝統的な演劇では、舞台上に立つ黒子が"見えないもの"と了解される。これは観賞するうえでの約束事だけれど、実際に起こったならば、不可視であることは即ち超能力と呼ばれるだろう。スタンドは黒子ではないが、人には見えずに、それぞれが特殊能力を発揮することを考えると、イメージとして黒子を思い描くのは大きく間違ってはいない。スタンドのすべてを説明するのに、どのスタンドにも黒子を当てはめるのは大間違いだけど。
 このように、本書を楽しむにはあらかじめ理解しておかなければならないことが多く、どう考えても「一見さんお断り」である。知らずに暖簾をくぐると痛い目に遭うだろう。店の奥から「無駄無駄無駄無駄無駄ァッ!」の声と打撃音が聞こえてくる。

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日々是寧日

amazon:[文庫] いま、殺りにゆきます RE‐DUX  平山夢明『いま、殺りにゆきます RE-DUX』を読んだ。
 本書の総ページ数は二百三十に満たない。この分量で三十四話もの数を収録している。つまりは一話が物凄く短いということだ。ちょっと空いた時間に数話を読むことができるので暇潰しにかっこうの一冊と買ってはみたものの、実際に読んでみるとこれが大間違い。どうにも読み進められない。
 内容がつまらないとか難解だとか、文章が下手だとか相性が悪いとか、そんな理由で読めないと云っているのではない。話自体は、短く纏められているし文章も読みやすいし内容は頭に入ってくるしで、読むには何ひとつ文句のつけようがない。寧ろ、イメージを喚起させる文章は素晴らしい。大絶賛だ。
 しかし、熟達の文章から喚起されるイメージが問題。皮膚感覚に訴えかけてきて、これが実に真に迫っているものだから、ただ読んでいるだけで脳髄は肌が刺激を直に受けたものと誤認する。神経機能すら欺く騙りのメカニズムによって、読者は語り手の痛みや恐怖や嫌悪を体感させられてしまう。感情を揺さぶられるだけでなく、感覚すら支配されてしまうのだから、作者に力量があることは疑うべくもない。

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いやホント、次こそは絶っっ対にワタシの番だからッ!!

amazon:[文庫] 夜は一緒に散歩しよ  黒史郎『夜は一緒に散歩しよ』を読んだ。
 読んだよ。ああ、読んだサ。だから、ここ二回の記事で読んだって書いてるンじゃないかよ。そうだよ。これで三回目だよ!
 チクショー、どいつもこいつも嘘吐きを見るような目で見やがって。見世物じゃねぇぞってんだ、バカヤロー!
 いや、もうホント......、今回で終わらせるから、絶対に今回でケリつけるから......、だから見捨てないでください......。

 ホラー小説家、横田卓郎は妻の三沙子を約一年前に亡くして、現在は娘の千秋と二人暮らし。三沙子の死は突然で、それだけに心の整理がつかないけれども、それは千秋も同じなのだから、と父親として娘に気を配る卓郎だが、実際にはどう接するものかよくわからない。
 わからないと云えば、千秋は本当のところ母親の不在をどのように捉えているのかがわからない。死に対する認識のまだできあがっていないうちに三沙子が亡くなったものだから、あるいは一時だけどこかに行っていると思ってはいまいか。著作では死を扱うものの愛娘にどう説明したものか、まるでわからない卓郎だ。
 自宅から程遠くない位置に川が流れている。川に沿って通っている道は、かつて卓郎と三沙子の散歩ルートだった。イラストレーターをしていた三沙子は、散歩の途中によくスケッチをしていた。卓郎が三沙子に結婚を申し込んだのもこの場所だった。
 生前の三沙子と同じように、千秋はこの散歩道を気に入っている。しかも午後11時という、幼児には遅すぎる時刻の散歩を。お絵描き帳と色鉛筆を携えての夜の散歩は千秋のお気に入りであり、娘の健やかな成長を願う卓郎としてはこのまま続けてよいものか悩んでしまう。
 娘の健やかな成長の為にも、本当ならば夜間は睡眠に充てさせるべきなのだろう。しかし、あまりわがままを云わない娘が、卓郎が執筆作業に没頭している間はおとなしく絵を描いている千秋が、唯一といってよいほど強く望むのが夜の散歩。保護者として至らないところの多いことを自覚している卓郎は、これくらいの望みは叶えてやりたいと思うのだ。
 母親の血を濃く受け継いだものか、千秋には絵の才能があるようだ。千秋が何を見て、何を感じているのかはわからない。けれど彼女の描く絵は見るからに独創的で、卓郎はそれらにタイトルをつけることを楽しみとしている。
 最近、千秋が描くのは、青い顔の女だ。彼女はこの女をママだという。

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次こそはワタシの番!

amazon:[文庫] 夜は一緒に散歩しよ  前回、なんだかわからないうちにブログを更新していた。取り上げるつもりだった作品にはろくに触れずに、気の向くままに好き勝手書いていたら、いつの間にか記事を仕上げていた。21世紀の「お筆先」っていうのかしら? いやはやビックリだよ。
 疲れていたのか。自分では気付いてないけど、夏風邪をこじらせてたのかもしれない。それともやっぱり憑かれていたのだろうか。『夜は一緒に散歩しよ』を読んで、その感想を書こうと思っただけなんだってば。怪談やら恐怖小説やらについて大層なことをいえる立場にないのよ、私。それがどうしてこんなことになっちゃったんだろう?
 やっぱり、憑かれてるのかなあ。
 黒史郎『夜は一緒に散歩しよ』を読んだ。

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次はワタシの番

 逐次手番ゲームと云うのは、たとえば将棋や囲碁やチェスといった、プレイヤーの攻撃権が順番に巡ってくるものを指す。これに対して同時手番ゲームはジャンケンが代表的で、プレイヤーが同時に攻撃する。また、逐次手番ゲームは、今挙げたような伝統的なゲームばかりではなく、トレーディングカードを用いるものやボードゲームが様々にあり、そういったゲームも概ねこの種類に属する。マジック・ザ・ギャザリングも人生ゲームも逐次手番ゲームだ。
 逐次手番ゲームにおいては攻撃権が交互にまわってくることから、先手であっても後手であっても攻撃に対して同時に防いだり反撃したりといった対応がとれない。また、たとえ妙手を考えついたからといって二回連続して攻撃することもできない。そして、これは云うまでもないけれども、一度指した手が悪手だからといってやり直すのは許されない。縁台将棋であったなら、「その手、待った」や「やり直させて」が許される場合もあるのだろうが、たいていはそんなの通用しないだろう。ましてや何かを賭けていたならなおさら。何事も取り返しのつかないことはあるものだ。
 同時進行の攻防ではないから、と気を抜いてはいけない。何手先をも見通さなければ勝利するのは難しい。一見して悪手と云える一手も後になって効いてくることがあるので、果たしてなおざりにしてよいものか、つくづくと悩む。
 とは云うものの私自身は将棋を指せばヘボ将棋、碁はまったく打てず、チェスは駒の動かし方から覚え直さなければならないという体たらく。これがカードゲームともなると、カードの収集欲ばかりが強くなって、肝心のゲームに対する情熱は不完全燃焼。そもそも数手先を読むということが私はどうにも不得手なのだ。バカとも云う。余計なお世話だ!
 ゲームに勝つには、それが逐次手番ゲームのものにせよそうでないにせよ、適性は勿論のこと、勝つことに対する執念や渇望が必要なのだろう。自分で云うのもおかしいけれど、私はのんびりしているからなあ。おそらく向いてないのだろうな。

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