本 Archive

ワタライケンヤの弁明

amazon:[文庫] 文庫版 死ねばいいのに(講談社文庫)  京極夏彦『死ねばいいのに』を読んだ。
 いやあ、楽しかった。読んでいるのが楽しくて愉しくて仕方なかった。まさに娯楽、正しく愉悦。ワクワクとドキドキで頬がゆるみっぱなし。
 さすがは京極マジック。頭の皮を剥ぐ勢いの脱帽、である。
 本書に収録されているのは六編。いずれも登場人物と物語世界の出来事が共通している、いわゆる連作短編だ。
 渡来健也という青年が、ひとりの女性について彼女の関係者を訪ねる。渡来健也が尋ねるのはその女性についてであり、他意はないのだれど、彼の話し相手は質問に答えず自分のことばかりを夢中になって話す。結果として健也は聞きたいことを聞けず、知りたいことを知り得ずして、次なる対象のもとへ話を聞きにゆく。
 彼が知りたいという女性の名前は「鹿島亜佐美」。数ヶ月前に自宅マンションで殺害された女性だ。渡来健也はその女性に四回会っている。
 渡来健也が自身についてわきまえているのは、頭が悪くて何事につけて鈍いということ。だから、他人のことはわからない。当然のように鹿島亜佐美のことを死んだ今となってもわからないでいる。
 健也は、鹿島亜佐美についていろいろと知りたいと思い、彼女と近しい間柄と思われる人物を訪ねて回っている。
 派遣先の上司
 隣人
 母親
 情夫
 果ては彼女の殺人事件を担当する捜査主任をも訪ねて警察署まで出向く。
 こうなると、彼がそこまでする理由がわからない。

 なぜ?

Continue reading

ミシュランガイド

 このブログで前々回前回と京極夏彦氏の講演を取り上げた。それによって小説家・京極夏彦のものの捉え方についてそのいくばくかはわかったように思われる。わかったような気になるのが駄目だといわれればそれまでだけれど。
 前回の記事は以前のブログからの再掲である。再掲するにあたって少なからず手を入れたけれども、それは読みやすいよう誤読を減らすよう表現を改めたのとこのブログの体裁に沿うかたちにしたまで。内容を改変してはいない。それでも実際の講演内容と異なる内容となっていたら、それは私の理解度と表現力が原因だと思ってほしい。
 最近更新が滞っていることもあって、過去のブログにおいて京極夏彦について語ったりその著作を取り上げたりした記事から前々回前回の記事の内容に関連したものを再掲してみることにした。が、しかしこれがいきなり暗礁に乗り上げる。データを「京極夏彦」で検索すると、その記事数が思ったよりもずっと多いのだ。
 たしかに私は京極夏彦のファンである。氏の著作のすべてを読んでないけどファンである。その著作に少なからず影響を受けてるのは自覚している。しかし、実際は思った以上に京極夏彦信者であった。京極夏彦とまるで関係ない外国映画をレビューする際にもその名を挙げているのはどうしたものか。自分でもびっくり。
 とりあえず先日の「世界の半分は書物の中にある」と題した講演の内容に沿ったものをと探していると、阿刀田高氏の『海外短編のテクニック』を取り上げた記事があり、そこに読書の延長にある書評についての考察があった。「無間書物地獄」では、講演で語られた文芸評論については触れなかったので、その記事を再掲することに決めた。
 なお、今回はテーマが変わってしまっているので、手直しをせざるを得ない。

amazon:[文庫] 文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)  京極夏彦氏の著作、『邪魅の雫』にこんな場面がある。
 仕事の相談に乗ってもらおうと中禅寺秋彦のもとを訪ねた益田龍一。そこには先客があった。それは自著の書評を目にして酷く打ちのめされた小説家。関口巽は自分ひとりの力で現実に立ち向かえず、こういった場合の常で京極堂に愚痴をこぼしに来ていた。そしてこれも相変わらず仏頂面をさげた古書肆は、関口の訪問を受ける常でこの旧知の知人をコテンパンに叩きのめす(中善寺秋彦は関口巽を友人として扱わない、絶対に!)。
 小説家・関口巽を打ちのめし、彼に眩暈坂をのぼらせた書評。ところが、そもそも書評というものの捉え方を関口は間違えていると京極堂は云う。京極堂によると、書評は四つの種類に分けられるとのこと。
 彼が創作物を林檎になぞらえて整理してみせた書評とは以下の通り。
 1、紹介
 2、宣伝
 3、感想
 4、空想
 1の「紹介」とは、「ここに林檎があります」といった事実を述べること。そして、この林檎は美味しいから買いましょうと書くのが、2の「宣伝」だ。実際に林檎を食べてみてその味を云々するのが「感想」である。ちなみに、ここまでの三種類の書評を、京極堂は「読み書きができれば犬や子供でも書ける」という。
 次の「空想」というのは、林檎を題材にしてその栽培法であるとか、林檎の植物としての位置付けとかを述べたものである。これは実際に件の林檎が如何に育てられたかどうかは問題ではない。林檎という一次創作物をもとに、どれだけ面白い読み物を仕立てあげられるかが眼目だ。
 先日の講演においても京極夏彦氏は評論家について語った。
 小説において「読書とは誤読である!」と断言する京極夏彦氏。続けて「誤読で正解なのだ!」とも。そのうえで文芸評論というものは誤読の面白いものがそう呼ばれるのだ、と。
 読書が誤読で、すべての誤読が正解ならば、文芸評論だけをありがたがったり権威付けしたりするのはおかしなことだ。評論も創作物である。ならば、どのように面白がろうとそれは読者の自由だ。新聞や雑誌に載ったり多くの支持を集めたりするからといって、その書評で示された読み方だけが正しいわけではないのだ。
 林檎の育て方や食べ方はひとつじゃない。それらを強制されるいわれもない。

Continue reading

ぐるぐるまわって

amazon:[大型本] マイマイとナイナイ (怪談えほん2)  怪談えほん『マイマイとナイナイ』を読んだ。
 本書は、岩崎書店の「怪談えほん」シリーズの二冊目。文章を皆川博子、絵を宇野亜喜良が担当している。
 大ベテランがタッグを組んで、その実力を遺憾なく発揮。このコラボレーションは物凄い作用を読者に対して齎す。特に幼い魂には要注意な代物だ。保護者は本書を危険物扱いしなければならない(わりと真剣にこう思う)。

 先だって催された、本格ミステリ作家クラブのトークショー&サイン会。このイベントは、本格ミステリ作家クラブの運営する本格ミステリ大賞、その受賞者を一般に御披露目する意味合いがあり、また、これを機会に一冊でも多くの本を手に取ってもらいたいという出版業界からの切なる願いがあって、作家と読者の交流と販売促進のコンセプトのもと、贈呈式の翌日に催される。今年は6月17日にこのイベントがあり、銀座は教文館がその会場となった。
 一般読者が集うこのイベントには、幾つかの企画がある。
 まずは、本格ミステリ大賞の小説部門と評論・研究部門の各受賞作家と受賞作品を推した作家が壇上に並び、受賞の喜びや創作秘話、推薦理由が語られるトークショー。作家の肉声を聞く機会は多くない。ましてや覆面作家ならばなおさらだ。
 この日、イベント会場となった書店で対象書籍を買うと、一冊につき一枚の抽選クジを会計時に手渡される。これを使った企画は、作家や出版社供出の品々が景品となるお宝抽選会だ。なかには世に一点モノのまさに「お宝」と呼ぶに相応しい品があり、コレクターの気味がある参加者の眼が怖い。
 そして本格ミステリ作家クラブに所属の作家による合同サイン会。作者とのささやかな交流の痕跡を著作に記してもらう。モノとしての本に愛着も思い入れもある人々によって行列は作られる。
amazon:[単行本] 開かせていただき光栄です―DILATED TO MEET YOU― (ハヤカワ・ミステリワールド)  愛読する作品を書いた敬愛するミステリ作家を目の当たりにし、ささやかながらもしっかりと交流のできる貴重な機会とあって、このイベントの盛況ぶりは凄まじい。
 お宝抽選会にサイン会と付加価値があるとはといえ、高く平積みされた本がハードカバーや文庫を問わずにどんどん売れる。「出版不況」が海の向こうのどこか遠い国で起きている出来事のように感じられるくらい。
 本屋で本が売れている。この当たり前の光景がなんだか嬉しい。自分の懐が潤うわけではなく、自分も買う側にいるのだからむしろ財布が軽くなる一方なのだけれど、良書がそれを求める人の手許にちゃんと届いているところに居合わせて、どうにも嬉しいのだ。
 さて、第12回本格ミステリ大賞の受賞作品について簡単に述べておく。
 小説部門は二作品のW受賞。城平京『虚構推理 鋼人七瀬』(講談社ノベルス)と皆川博子『開かせていただき光栄です』(ハヤカワ・ミステリワールド)が同数の票を集めたということだ。そして評論・研究部門は笠井潔『探偵小説と叙述トリック』(東京創元社キイ・ライブラリー)が受賞。
 第12回本格ミステリ大賞記念トークショーの模様については、光文社の「ジャーロ」46号に特集記事が掲載されるとのこと。興味を持たれたのなら、それに目を通していただきたい。
 このイベントを取り上げた理由はひとつ。この日のサイン会で皆川博子女史から『マイマイとナイナイ』にサインを頂戴したということの、これはやはり自慢になるのだろう。我ながらイヤな奴である。スノッブ丸出しだ。
 それはともかく、もしも宇野亜喜良画伯のサインもいただけたなら、夢のWサイン本の完成である。しかも為書きのある、世界に二冊とない宝物! 問題は、どこに行ったら宇野亜喜良画伯と遭遇できるのか、という一点に尽きるのだけれど。

Continue reading

どこへ行くにも風まかせ

amazon:[単行本] ゆうれいのまち (怪談えほん4)  怪談えほん『ゆうれいのまち』を読んだ。
 本書は岩崎書店の「怪談えほん」シリーズの第四弾。文章を恒川光太郎、絵を大畑いくのが担当している。
 このブログでは、怪談えほんのシリーズについてこれまでに二冊を取り上げている。京極夏彦と町田尚子の『いるの いないの』と、加門七海と軽部武宏の『ちょうつがい きいきい』だ。二作ともに32ページという「お手軽な」分量を忘れさせる濃密な読書体験を齎してくれた。
 ただ「見る」という行為がそこにあり、そのことで非在から実在へと立ち位置を変える"その人"。一旦、その実在を受け入れたら最後、脳梁から見下ろされる"気配"を何かにつけて意識せざるを得ない。大いなる呪い、『いるの いないの』。
 身近に迫った死の運命を警告するのは超自然の存在。それらの声を借りて叫びに叫んでも、逃れる術は誰からも与えられない。恐慌のまま走り続けて、それに合わせるように命が軋る。余韻の名は"死"、『ちょうつがい きいきい』。
 恒川光太郎と大畑いくののコンビは、心にどんな爪痕を残すだろうか?

Continue reading

錆色の叫び

amazon:[単行本] ちょうつがい きいきい (怪談えほん5)  怪談えほん『ちょうつがい きいきい』を読んだ。
 本書は岩崎書店の「怪談えほん」シリーズ第五弾。文章を加門七海、絵を軽部武宏がそれぞれ担当している。
 怪談えほんのシリーズについてこのブログでは、先に第三弾の『いるの いないの』を取り上げた。たった32ページという少ない分量でありながら、それが突き落とす悪夢は底無し。ものすごい仕掛けだ。
 監修者の東雅夫がけしかけて京極夏彦と町田尚子が完成させた"呪い"は幼い読者にすら有効で、寧ろ無垢な感性にこそ効果的な"呪い"なのかもしれない。「見えないものは存在しない」を裏返して、「見えてしまったからには存在する」という"結論"を読者におのずから導き出させる手口は巧妙で、さすがは京極夏彦というところだ。当代でも随一であろう言葉の魔術師に気鋭の画家が力を貸して、古民家の屋内から心の平安を駆逐した。
 そして我が家は安全地帯ではなくなった。こうなったらどこに逃げ込めばいい?

Continue reading

マヨヒガに猫は集う

amazon:[単行本] いるの いないの (怪談えほん3)  怪談えほん『いるの いないの』を読んだ。
 本書は、岩崎書店から刊行の「怪談えほん」シリーズにおける第三弾である。文章を京極夏彦、絵を町田尚子が担当している。
 岩崎書店のサイトを訪れると「怪談えほん」のラインナップが公開されており、それによると第一弾は宮部みゆきと吉田尚令『悪い本』、第二弾は皆川博子と宇野亜喜良『マイマイとナイナイ』、そして第四弾は恒川光太郎と大畑いくの『ゆうれいのまち』となり、加門七海と軽部武宏『ちょうつがい きいきい』の第五弾と続く。
 これら五冊はいずれもA4変型判の32ページ。云うなれば、同じ条件である。読みくらべるには適しているかもしれない。定価は税込み1575円とこれまた同じときたものだ。夏と冬に台場で薄い本に血道をあげるくらいなら、「怪談えほん」を買うというのはどうだろう? 少なくとも『いるの いないの』は買うべきでしょ。
 好評につき第二期刊行の運びとなりそうで、実にめでたい。まだ決まっていないのだけれど、次のラインナップを想像しては作家名を思い浮かべてニンマリする。岩崎書店もインターネットを利用して読者と交流を持っているのだから、ネットを介して「怪談えほん」で書いて欲しい作家を募集する、というのもひとつの手だと思うけど、どうだろう? やはり素人考えか。

 なんだか売らんかな精神全開の宣伝広告みたいになってしまったけれど、この記事はステルスマーケティングじゃないよ。どこからも一銭も貰ってないよホントだよ。
 それではどんな意図があるのかというと、それは単純。たまには絵本も悪くない寧ろ良い!

Continue reading

百年ごとの百鬼夜行

amazon:[新書] なぜ怪談は百年ごとに流行るのか (学研新書)  東雅夫『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』を読んだ。
 21世紀に入って怪談がいよいよ隆盛を見せている。著者は文化文政期と大正期にも怪談の流行があったことに着目。これらを怪談黄金時代と呼んで、そこにそれぞれ百年のスパンがあることから本書を執筆したようだ。
 怪談が百年ごとに黄金時代を迎えるというのは、一年を一本の蝋燭に見立てて、一話語るごとに火を吹き消す例の作法、百話を語って怪至るというアレ、百物語の仕組みではない。百年経ったからといって、超自然の理でもって怪談ブームが到来するわけではないのだ。たぶん、きっと。
 怪談がブームを迎えるには相応の理由がある。本書の著者が云いたいこととは違うかもしれないけれど、怪談初心者による無手勝流怪談講座である。
 嘘である。講座と称するのはさすがに恐れ大井の競馬場。

Continue reading

にんげんていいな

amazon:[文庫] 狂奇実話 穽 (恐怖文庫)  黒木あるじ『狂奇実話 穽』を読んだ。
 気鋭の怪談作家、黒木あるじ氏の最新刊とあって、発売前から注目していた本書。先にこのブログで取り上げた『怪談実話 無惨百物語 ゆるさない』が素晴らしかったので、期待はいや増すばかり。ちなみに、『怪談実話 無惨百物語 ゆるさない』については、このブログで二回も取り上げるほど。
 また、本書は平山夢明氏が監修する「FKB」シリーズの一冊ということで、これは完成度に不安はないことを意味する。これも期待材料だ。
 さあ、面白さ、満足度ともにハードルは上がるだけ上がった。もはやハイジャンプに等しい障害物競争を、無事に駆け抜けることができるだろうか?

Continue reading

地球を救うのは愛だってばよ!

amazon:[文庫] ラブ@メール (光文社文庫)  また、だ。
 また一回で書き切れなかった。今回は『ラブ@メール』だ。
 やはりアレか、愛を扱う小説について語るのがそもそも間違っていたのか。完全にお門違いか。「お前が愛を語るなんてチャンチャラおかしい」ってか。
 でもなあ、一旦、手ぇつけちゃったもんなあ。最後までやり遂げるしかないもんなあ。
 あ、もしかして作者に呪われているのかしらん。

 ある日、突然に"愛"が暴発した。第二次性徴期を迎えた者のほとんどが、男女を問わず"愛"に中てられて死んだ。幼い子供と僅かに生き残った大人が、人間社会が崩壊を来した世界に放り出された。
 二見健司と大熊晃一が人間社会の持っている強さを体現するならば、泉裕也と佐倉唯は個体としての人間の弱さを表現している。裕也は青二才、唯は妊婦。どちらも社会において庇護される存在だ。大熊と二見が"強き者"ならば、裕也と唯は"弱き者"だ。一方は安心して見ていられるけれど、もう一方はその行動のひとつひとつが不安を誘う。
 奇妙な縁で出逢った裕也と唯は、未曾有の出来事のなかでそれぞれが有していた人間関係を清算することになる。互いに残ったのは、縁がとりもつおかしな関係と母胎の中で育まれる生命。そして、想い。
 即席の家族は読者をジェットコースターに乗せる。裕也と唯が弱いことで読者は二人に対して親身になり、彼らの行く末を我がことのように案じる。だから、彼らの平穏と彼らの危機は、読者の感情を面白いように揺さぶるのだ。特に、唯の身に危険が迫れば、それが超自然的な脅威でなくとも、読者の心臓は凍りつく。オイ、唯は無事か? お腹の子は無事なのか?

 本作で為される"強き者"と"弱き者"との対比。"弱き者"の安全と危機。作者はそれぞれの場面を自在に展開して、読者の感情をコントロールする。そのうえでホラープロパーとしては、やがて訪れるカタストロフに向かって物語が盛り上がってゆくものと思う。祝祭とも云える大崩壊に向けて、心は浮き立つ。しかし、物語はそういうのとは違う展開を迎える。
 前回の記事の冒頭に、「ホラー小説、特に長編作品であれば、その構造としてミステリのそれを用いるという手法がある」と述べた。謎を解明することで、改めて恐怖が本質を伴って襲いかかってくる。これが謎解きを伴う恐怖の物語である。このような構造を持つ物語では、謎解きは物語の終盤で為されることになる。真相の衝撃とそれが持つ真の恐怖、その"鮮度"を保つにはあまりに早い段階で提示するのは御法度。恐怖を感じるのは短時間なのだから。
 しかし本作において、謎解きは中盤で為される。これがミステリならば、中盤で提示された推理は最終的には正しくないもの、未完成なものとして扱われる。云わば露払いだ。そして、中盤に提示された推理が色褪せてしまうほど、物語世界を揺るがすような推理が恭しくも献上されるものだ。それまで見えていた光景がガシャンと崩壊して、見る間に大伽藍が立ち上がってゆくのを歓喜のうちに見守る。これが、ミステリの醍醐味だ。
 本作は、二見が中盤に立てた推理を生け贄に捧げることをしない。二見の推理は大筋で誤りがなく、彼が指摘したモノは犯人に間違いない。だから、意想外のどんでん返しは起こらない。ミステリの観点からすれば、肩透かしもいいところだ。
 本作はホラー小説なのだから、真相が明らかになることの快感よりも優先されるべきものがある。そもそもの前提が異なっているのだから、ミステリとして読んだ場合、なんていうのはお門違いも甚だしい。
 ただし、ホラー小説が優先すべき恐怖感情についても、本作は期待を上回ることはない。これはなぜか?

Continue reading

愛は地球を救う

amazon:[文庫] ラブ@メール (光文社文庫)  黒史郎『ラブ@メール』を読んだ。
 ホラー小説、特に長編作品であればその構造にミステリのそれを用いるという手法がある。その内容は、以下のようなものだ。
 探偵役を演じる作中人物が、怪異の原因を探るうちにその正体や事の真相に辿り着く。そしてこれらを知ってしまったが故に、何も知らなかった時点にくらべて、いっそう深い恐怖の淵へと落ちてゆく。それまでぼんやりと感じていた不安や恐怖が、明確な姿を現して襲いかかってくる。
 このパターンの作品のキモは、怪異の正体やその奥に潜む真相を知ったところで、根源的な解決にはならないという点だ。真相に辿り着いたとか事件は解決したとか思っても、それは事態のほんの表層を撫でたにすぎない。物事すべてがきっちりと割り切れないままに物語は幕を閉じて、読者は心細さを感じつつ物語世界に取り残されてしまう。
 探偵の推理によって事件の真相は解明され、日常は取り戻される。これが一般的なミステリの結末だ。しかしホラー小説の場合、ジャンルプロパーとしてこのような結末は望ましくない。怪異の正体が明らかとなっても、平穏な日常が戻ってくることは二度とないのかもしれない、と読者に思わせるようでなければならない。
 ホラー作家は長編作品に物語としてのケジメをつける。作中にちりばめられた伏線は回収され、全編を覆った謎は解かれる。提示された答えには納得するし、どこからも文句の出ることはないけれど、それでも恐怖の悲鳴を上げるのがホラー小説だ。知らなくてよいことを、知ってはならないことを、不注意にも知ってしまった読者が、後悔を抱きつつ悲鳴を上げるのだ。

 ある日を境に世界は終末へと向かう。人類がこれまで構築してきた法やシステムは崩壊し、生き延びることがなにより優先される世界。それまでの約款は通用しなくなる。
 そんな世界に残るのは弱肉強食のシンプルな論理。そして、「いったい何が起きたのだ?」「何が原因でこんなことになったのだ?」という謎。謎はそのままにしてはおけない。人は生き残りをかけて謎を解決しなければならない。
 現状を正しく認識することが事態の解決に向けた一歩となり、謎を解明することが今日を生き延びて明日に命を繋げることとなる。生きるのを諦めないうちは、立ち止まっていても事態は好転しない。前に進まなければならない。極端なことを云えば、謎に対して誤った解釈をしても構わない。一歩を踏み出すのに、勢いとなればそれでよい。結果的に停滞が正しい選択だったとしても、それはあくまで結果にすぎない。人が生きようと努力することに意味があるのだから。ただし、生きるためにも謎の解明は必要だ。
 だから、謎を謎のままにしておくわけにはいかない。
 黒史郎『ラブ@メール』において、人間社会は未曾有の危機に直面する。愛が人を殺すのだ。「愛が人を殺す」とはロマンティックな表現だが、この物語で描かれる死はただただおぞましい。愛に取り憑かれ、性衝動に駆り立てられた者たちは、性交のさなかに息絶える。その一方で、ペアリングに失敗した者は血を噴いて悶死する。
 愛に狂った人は言葉をなくし、衣食住に頓着しなくなり、さながらゾンビの如くに街を彷徨う。異性を見つければ全力でこれを追い、捕らえた後はすかさず欲求を果たす。ジョージ・A・ロメロ以降のゾンビが新鮮な血肉を貪るなら、本作に登場するのは愛の成就をひたすら求める愛の亡者だ。
 いったい何が起きたのか? 何が原因でこんなことになったのか?

Continue reading

1-10 11-20

Feeds
blogram投票ボタン フィードメーター - MESCALINE DRIVE 人気ブログランキングへ
Message
Visitor

Return to page top