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錯綜する大場さん

 さて、アメリカン・コミックを語る記事の3回目となる。
 前回は第1回の内容を振り返るのに文字数を使いすぎた。繰り返しになるので大して意味はないのにもかかわらず。これは反省すべき点だ。
 だから今回は、スッキリとスマートな筆致でズンズン進めようと思う。
 まずはトラウマの「エイジ・オブ・アポカリプス」から語ろう。
 聞こえる。「オイ、またかよッ!」とのツッコミが聞こえるぅ!
 とはいえ、今回語るつもりの事柄については(ハナシが横道に逸れて語れずじまいになるかもしれないけれど)、「エイジ・オブ・アポカリプス」でのトラウマを踏まえるのは必要な手順なのだ。
 何も知らないも同然なのに「エイジ・オブ・アポカリプス」に挑み、手出しできぬまま敗走した私の脳裏に刻まれた、「クロスオーバー」。
 かの作品はクロスオーバー大作だった。「クロスオーバー」の何たるかを知らず、異常なほどの数のキャラクターが登場することも錯綜する人間関係にも戦慄するばかり。
 この人数の多さは「クロスオーバー」が関係しているらしい。ヨシ、わかった。クロスオーバーは、敵だ。
 時は流れて十余年。アメコミ作品の映画化はひとつの流行となってハリウッドを席巻しつつあって。撮影編集技術の革新は夢のような光景にある種の現実味を持たせることに成功した。
 時間の経過と状況の変化によって、私のアメコミ読まず嫌いは払拭された。
 ただし、トラウマは完治したわけではなかったようで。

amazon:[単行本(ソフトカバー)] バットマン:梟の夜 (ShoPro Books THE NEW52!)  二年前、夢中になった『バットマン:梟の法廷』と『バットマン:梟の街』の後、一旦『バットマン:ハッシュ 完全版』を間に挟んだ後に『バットマン:梟の夜』を読んだのには理由がある。
 それは『梟の夜』の絵柄が、ちょっとバタ臭かったからだ。
 そこで描かれているのは、私が惹かれたグレッグ・カプロの手になるバットマン譚ではなく、絵柄の異なる幾つかの物語。
 前回、アメコミにおける著作権は慣例的に出版社が有することを述べた。だから、ひとつのタイトルにおいて複数の作家が携わることは当たり前である、と。
 そうでなければスーパーマンやバットマンのように誕生から75年以上経つキャラクターは、彼らを生んだ作家の引退や逝去を機に、その物語の幕を下ろさなければならない。だが、現実はマン・オブ・スティールもダークナイトも未だ健在。毎月、その活躍を描いた個人誌や関連誌が刊行されている。
 だから『バットマン:梟の夜』収録のエピソードに、『梟の法廷』や『梟の街』で馴染んだグレッグ・カプロの絵を見ることがなくても、これまで述べてきたアメコミの認識から外れてはいない。グレッグ・カプロのかわりに誰かほかのアーティストが作画を担当したのだな、と事態を受け入れられる。
 しかし、これは勘違いなのだ。確かに、グレッグ・カプロとは別のアーティストが「バットマン」誌に携わることはある。現に『バットマン:梟の夜』にもラファエル・アルバカーキの手になるエピソードが収録されている。
 ただし、書名に「バットマン」とあるが、『梟の夜』は収録作品のほとんどは「バットマン」誌のそれではない。その帯には「バットファミリーの戦いを描いたクロスオーバー作品」とある。
 嗚呼、クロスオーバー!
 因縁のクロスオーバー!

 日本の漫画文化において、ついぞ目にすることのない「クロスオーバー」。この「クロスオーバー」を説明するのは簡単ではない。
 あえて乱暴に纏めるとするなら、「複数のタイトルをあげてのイベントがある際、それぞれのタイトルの登場人物がゴチャ混ぜになって、物語が展開する」といったところか。いや、こりゃいくらなんでも乱暴すぎる。
 キャラクターや出来事がタイトルの垣根をこえて共有される。つまり、スーパーマンとバットマン、そして彼らの敵がそれぞれのタイトルにおいて共演を果たす、ということが実現するのだ(例に挙げておいて申し訳ないのだが、スーパーマンとバットマンの場合はクロスオーバーでなくとも共演するし、ともに名を連ねるタイトルがあるしで、例とするには微妙な二人だったね)。
 それぞれに独立したストーリーラインを持つタイトルにおいて、個別の流れを横断する出来事や事件を描く。これをクロスオーバーと表してかまわないかも。
 クロスオーバーによって得られるメリットは、複数のタイトルにて扱われることで当該事件の影響の大きさを描くことができる。いくつかのタイトルで筋運びを担当するため、そのことに腐心することなくキャラクターの人となりを描くことができる。そして最も大きな利点は、ふだんは積極的に手に取らないタイトルに読者の注意を引き込む、という点だ。
 クロスオーバーを契機に売り上げを伸ばそうという狙いがある。
 旨み十分のクロスオーバーだが、だからといってこの手の企画が無条件で成立するわけではない。これを実現するには条件がある。世界観が共通してなければならないのだ。
 前回、週刊少年ジャンプとその連載作品を例にとって漫画とアメコミの違いを説明したが、ここで再び週刊少年ジャンプのお世話になる。
 創刊からもうじき半世紀を誇るジャンプ史において、連載時期の一致する作品がある。たとえば「こちら葛飾区亀有公園前派出所」と「北斗の拳」と「ドラゴンボール」。
 この三作品、それぞれのキャラクターが共演を果たすことはない。お祭り企画であれば力業でもって同じ舞台に立たせられるけれど、そもそもが異なる世界観に生きる住人たち。それぞれ現代日本と最終戦争後の近未来、どことも知れぬ異世界に生きているわけで。
 両津勘吉とケンシロウと孫悟空が、それぞれの作品世界に個別の約束事を持ち込んで共演できるとは思えない。ギャグとシリアスとは相反するものではないが、この三者の行動様式が無理なく成立することはないだろう。孫悟空のかめはめ波をくらって爆散するケンシロウも、北斗百烈拳を受けて肩凝りが治る両津勘吉も、あちらが立てばこちらが立たぬといった具合で、三者の世界観はどうにも並び立たないのだ。
 これに対して、スーパーマンとバットマンがともに活躍する世界観は、その出版社であるDCが担保する。
 この「DC UNIVERSE」において、スーパーマンが主に活動するメトロポリス、バットマンが守護するゴッサムシティ、ほかにもフラッシュのニューヨーク、グリーンアローのスターリングシティ等が、原則として同じ世界観のもとに存在する。
 出版社の主導のもと(この場合はDC)、世界観の統一が図られるわけだ。これは、著作権が出版社にあるから実現できる。
 DCが、その編集部が、キッチリと舵取りすることで、メトロポリスもゴッサムシティもニューヨークもスターリングシティも同じ地上に現出せしめ、そこにヒーローを誕生させられる。
 だから、「同じ世界観を共有する」という不文律が守られている作品の間では、クロスオーバーが起きる可能性はあるのだ。

 そこで『バットマン:梟の夜』だ。帯にある文言は「バットファミリーの戦いを描いたクロスオーバー」だ。
 ちょっと待て。バットファミリーって何?
 ウン、わかる。その疑問は尤もだ。
 バットマンが守護者と自任するゴッサムシティは、物理的に広大であり、社会的な階層の意味においても大きな格差を持つ。最先端技術を思うままに駆使できるからといって、たったひとりで治安維持を成すのはさすがに無理がある。
 正義の不滅を信じて闘争するも、所詮は不法の自警市民だ。法を逸脱するバットマンが正義を名乗るのはお門違いだ。そんな立ち位置を選び、どんなに辛くてもそこから逃げずにいるところに私は惹かれるのだ。だから、私はバットマンを好きなのだ!
 私の思いはともかくとして、バットマンの孤独を慰めるのはウェイン家の執事アルフレッド・ペニーワース。そして彼と同じように闇夜を駆ける同志たち!
 耳慣れない言葉かもしれないけれど、バットマンの歴史をひもとくうえで無視できないそれに「ダイナミックデュオ」というのがある。これはバットマンと彼の相棒であるロビンを指す。
 そう。バットファミリーのひとりは、ロビンだ。バットマンの永遠の相棒は、しかしひとりではない。

amazon:[単行本(ソフトカバー)] ロビン:イヤーワン (ShoPro Books)  初代ロビンは、ディックことリチャード・グレイソン。サーカス出身の少年は、空中ブランコの花形スターの両親を亡くし、孤児となったところをブルース・ウェインに引き取られる。ある夜、ディックは、素封家にして稀代のプレイボーイとして衆目を集めるブルースのもうひとつの顔を目撃する。
 かくしてバットマンに年若い相棒が誕生する。永遠のボーイワンダー、ロビンだ。
 やがてダイナミックデュオの称号を得た二人だが、いつまでもコンビを組むというわけではなく。
 ディックは成長するなかで自ら知見を求め、その経験から自警市民としての在り方に関して、彼のなかで偉大なる養父とは相容れない点が生じる。一方でブルースは少年を死地へと誘うことの、そして彼を喪うことの恐怖に苛まれる。
 どれだけの衝突があっただろうか。
 ついにそのときは来た。ブルースはディックから相棒の役割を取り上げ、少年はウェイン邸を出て、独立することを選んだ。
 このとき、ディック・グレイソンはロビンのコスチュームに別れを告げた。

amazon:[単行本] バットマン:デス・イン・ザ・ファミリー (ShoPro Books)  二代目ロビンはジェイソン・トッド。ゴッサムの不良少年だった彼は、夜の街をパトロール中のバットモービルからタイヤを盗もうとしてそこをバットマンにスカウトされて、なんだかんだで二代目ロビン?
 イヤイヤイヤ、「なんだかんだで二代目ロビン?」ってあまりにもお粗末な説明じゃないか。何も明かしちゃいないも同然だ。
 それはわかっている。自分でもちゃんとわかっているのだが、述べている途中で「歴代ロビンをきちんと紹介してゆくとなると、それだけで記事一回分の文字数を必要とするな」と気づいて、それは今回の主旨とは異なるので端折ったのだ。つまり不可抗力。
 ジェイソンが一度死んで生き返ったことまで語るとなると、彼が死ぬことがどういう経緯で決まったのかまで説明せねばならず、ますます収拾がつかなくなる。
 そういうことだから三代目と四代目のロビンも名前を挙げるのみにとどめる。バットファミリーはアルフレッドとロビンだけではないのだ。
 三代目ロビンは、ティムことティモシー・ドレイク。ティム・バートンから名前をいただいたのだ。
 四代目であり現役の「ロビン」を務めるのは、"最年少"のダミアン・ウェインだ。ブルースと同じ姓を持つことからわかるように、彼は"バットマンの息子"のうち、ただひとりの実子である。ただこの父子、複雑な事情を山ほど抱えていて、ふつう一般の親子関係やら家族の歴史やらを持たない。
 とりあえず、「梟の法廷」事件におけるロビン事情はこんなところだ。
 ちなみに初代から三代目、つまりディックとジェイソンとティムは、それぞれに新たな名前とコスチュームで自警活動を行っている。ディック・グレイソンは「ナイトウィング」を名乗り、ジェイソン・トッドは「レッドフード」を、ティム・ドレイクは「レッドロビン」を名乗っている。それぞれに「ナイトウィング」誌、「レッドフード&アウトローズ」誌、レッドロビンは若いヒーローチームの活躍を描いた「ティーンタイタンズ」誌を主戦場としている。
 ここまでのところで、既にちょっと食傷気味でしょ?

 バットマンと歴代ロビンがそうであるように、バットファミリーはたいていそれぞれが個人誌を持つ。
 たとえばミシェル・ファイファーやハル・ベリー、アン・ハサウェイがそれぞれに映画で演じたキャットウーマン。この怪盗はその泥棒稼業からバットマンの敵に回ることもあれば共闘することもあり、だからバットファミリーの一員である。
 そのキャットウーマンには個人誌「キャットウーマン」があり、そこで彼女の波乱に満ちた冒険が描かれる。
 今回の記事でテーマとしている「クロスオーバー」を「バットマン:梟の法廷」三部作に即して述べるならば、バットマン系タイトルの旗艦誌である「バットマン」誌とその関連誌、「ナイトウィング」誌であるとか「レッドフード&アウトローズ」誌であるとか「キャットウーマン」誌とかで「梟の法廷」事件を描くことを、「バットマン系関連誌におけるクロスオーバー」と表すことができる。
 この「梟の法廷」のクロスオーバー・イベントのために「ナイトウィング:梟の法廷」誌が刊行されるのではない。「キャットウーマン:梟の法廷」誌が刊行されるのではない。
 それぞれ既に刊行されている個人誌において、それまでの流れのなかで、あるいは流れとは別に、「梟の法廷」事件での各人の活動が描かれるのだ。
 いま「各個人誌でクロスオーバー・イベントがそれぞれに扱われる」と述べたが、一方でイベントのために開始するミニシリーズもある。
 クロスオーバーは日本の漫画文化にはない慣習なので、なかなか実感できないところかもしれない。実際にいくつかの作品に触れて、それでようやく受け止められるようになるのかもしれない。百聞は一見に如かず、というやつだよ。
 いや、クロスオーバー云々よりも、いまひとつピンとこないことがあるだろう。

 さきほどから何度も出てきているのだけれど、「個人誌」って何?

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