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ケープを纏った半可通

amazon:[単行本] スーパーマン:アースワン (ShoPro Books)  さて、アメリカのコミックブックについて素人が語る第2回の記事だ。思ったよりも早く実現した。ここ二年ほどの更新頻度からすると、マッハですよ。音速の行進!
 CAPCOMの対戦格闘ゲームで親しんだキャラクターについて、ゲームで紹介される程度の知識で「知己を得た」レベルにまで勘違いし、調子に乗って「エイジ・オブ・アポカリプス」に挑むも返り討ち。
 昔から読み慣れている日本の漫画とは異なるアメコミの様式に、この初心者は為す術なく敗走し、心に深い傷を負う。
 その後、十年以上の時を経て、「アメコミも悪くないなあ」と思い直すきっかけとなったのが、「スーパーマン:アースワン」だ。
 クリストファー・ノーランの「ダークナイト・サーガ」三部作に熱狂し、ザック・スナイダーの「マン・オブ・スティール」を心待ちにするようになって。その頃には、かつて距離をとっていたアメコミ映画に親しむようになっていた。
 強大な力を有するヒーローが活躍する雄姿に喝采をあげる、心の底から楽しむ。彼ら"超人"の個人として抱く思いと使命感との間で葛藤する背中を見て、我が事のように胸を痛める。
 既にしてアメコミの魅力の一部は感得しているわけで。
 ただし、「リメンバー・アポカリプス!」が脳裏にチラつくのも事実。
 それに加えて、アメコミ翻訳本の購入に足踏みする、しごく尤もな理由がある。
 アメコミの翻訳本は安くない。フルカラーで判型はだいたいB5判、ページ数は三百に満たない、いたって薄い単行本。それであっても二千円をオーバーする。『スーパーマン:アースワン』は136ページで定価2000円(税抜き)だ。
 かつて私を苦しめた「エイジ・オブ・アポカリプス」は各巻3000円以上したのではないか。
 だから、「ちょっと手を出してみようかしら」なんて気軽に買える金額ではない。
 悩む。「買ったはいいけどハズレだったらどうしよう」の不安がつきまとう。冷静に考えると、「ハズレ」レベルの作品がわざわざ翻訳の手間をかけてまで出版されるわけはない。編集会議と営業会議を通った企画なのだから、世に問うだけの価値は有すると判断されたに違いないわけで。
 ただし、物語としての面白さや完成度において「ハズレ」はなくとも、相性が合わないということはある。文章のリズムがしっくりこない、絵柄が好みじゃない、主張やテーマが気に入らない等。
 アメコミのアートスタイルは、日本の漫画のそれとは一線を画している。そして私は、アクの強くバタ臭い、いわゆるアメコミらしい絵柄が苦手だ。その手の作品を積極的に読みたいとは思わない。
 だから、「スーパーマン:アースワン」の次に何を読むかとなると、最後まで倦まずに読める絵柄であることが最低の条件だった。

 東京は秋葉原の書泉ブックタワー。6階は、その上階と同じくコミック専用売り場だ。
 その一角に海外マンガのコーナーがある。
 平置きのタイトルは試し読みに応じる一冊が用意されていて、だから高い買い物に際して、全部ではないにせよ内容を把握することができる。
 先に買った『スーパーマン:アースワン』も、パラパラとページをめくって「あ、これは大丈夫な絵柄だ」と確認したうえで購入に踏み切った。無論、面白そうだとも感じたのだ。
 こういう事情があるので、『スーパーマン:アースワン』の次に買うのも書泉ブックタワー。カッコイイ、そして面白い作品を選んでやる。
 悩んだ。
 なにしろ高い。普通に文庫本を数冊買える価格帯だ。フルカラー印刷であり、出版権だの翻訳だのの経費が上乗せされることを考えると、価格設定は妥当のように思われるが、だからといって「アラ、お値打ち!」とは受け止められない。ましてアメコミ道に入門するかどうかすら迷っている身には、なおさらに「相応の価格設定だよね」なんて考えられない。その精神的余裕も予備知識も無い。
 だから、悩んだ。
 実際に買うまでに何回も秋葉原に通った。
 買ったのは、「ケープを纏った十字軍騎士」とも「闇夜の探偵」とも呼ばれ、自他ともに認める「ゴッサムシティの守護者」の活躍を綴った一冊。否、苦闘を描いた一冊かな。
『バットマン:梟の法廷』だ。

 書泉ブックタワー6階。試し読みの『バットマン:梟の法廷』のページをパラリバラリとめくる。断片的に読み取れるのは、何かとてつもない陰謀とそれに挑む探偵がいるってこと。クリストファー・ノーラン作品で、すっかり贔屓となったバットマンの物語だ。
 何度目かの秋葉原詣で。心の中でその本を買うことを決めてはいたけれど踏ん切りがつかず、グズグズと"買おかやめよか音頭"を踊っていた私が、「やっぱりコイツは面白いに違いない!」とレジへと持って行った『バットマン:梟の法廷』。
 これまでに人生の転機となる読書体験は何度となくあった。はじめて謎解き物語を読んだのは「マガーク少年探偵団」の一冊だ。菊池秀行『吸血鬼ハンターD』によって新たなジャンルへの一歩を踏み出し、遠ざかっていたミステリへの回帰を果たしたのは綾辻行人『十角館の殺人』を読んでのこと!
 かつて「エイジ・オブ・アポカリプス」によって負ったトラウマを最終的に払拭したのは、スコット・スナイダーとグレッグ・カプロのコンビによる「バットマン」だ!
 まず惹かれたのは波乱万丈な内容ではない。スマートな描線だ。それまで抱いていた"アメコミらしい"絵柄とは違って、スッキリと無駄のないところが好もしく、そして色使いも大いに気に入った。
 だから「バットマン」のアートチームが、グレッグ・カプロが、私に"劇的な改心"を齎したといって過言ではないのだ。ここのところは事実であり、申し訳なく思うよスコット・スナイダー。

 さて、ここまで読んでくださった方で、疑問を抱いた向きもあるかもしれない。
 ちょっと前に「アクの強くバタ臭い、いわゆるアメコミらしい絵柄が苦手」と書いてなかったか?
 いや、バットマンってアクの強くてバタ臭い絵柄で、いわゆるアメコミらしいオッサンじゃなかった?
 でも、グレッグ・カプロの絵柄は「スッキリと無駄のない、スマートな描線」を持ち、作家はそれをもってしてバットマンを描いているわけだ。
 同じ「バットマン」を描きながら、二つの異なる印象が生じている。
 どういうこと?

amazon:[単行本(ソフトカバー)] バットマン アンソロジー  一般に思い描くバットマンとは、アメリカ発の古いアニメに見る姿ではないだろうか。リミテッド・アニメーションの権化のようなアレである。
 全員が「機動戦士ガンダム」のブライト・ノアみたいな眼を持ち、「目は口ほどに物を言う」を敷衍する"目の演技"がちっとも実現できない、そんなアレ。
 あの手の絵柄を好きじゃないので、誹謗がスルスルと出てきてしまう。困ったものだ。
 それはそれとして、あのバットマンとグレッグ・カプロのバットマンの違いは何か?
 答えは出ている。
 絵柄の違いは作家の違いから生じる。作家はそれぞれに作風を有するものだから、作風から絵柄の違いが生まれても不思議はない。つまり、作家が違えば絵柄が違うのは当たり前である。見事な三段論法である。
 というわけで、ボブ・ケインのバットマンとグレッグ・カプロのバットマンが同じ絵柄だと思うほうがおかしい。
 では次に疑問となるのは、「バットマンの物語なのに作家が違うってどういうこと?」だろう。
 これも当然だ。日本の漫画に親しんだ日本人なら当たり前に抱く疑問だろう。
 ここで私たちに馴染みのある作品を例にとって説明を試みる。
 週刊少年ジャンプが誇る老舗漫画、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」は来年に連載40周年を迎える。連載開始からこちら、未だかつて中断はおろか休載すらないというのは、驚くべき事実だ。作者の鉄人ぶりはともかく、私たちにとっては当然のことだが、この作品は作者である秋本治がずっと描いている。途中でほかの作家、たとえば鳥山明だとか北条司だとかが連載を受け持ったことはない。
 日本の漫画の場合、原則的に作者と作品とは一本の線で結ばれる。ヒット作が、たとえば人気に翳りが見えはじめたからって、作者の首をすげ替えることは、絶対にとはいえないけど基本的には、無い。
 これは著作権が作者にあるからだ。「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の著作権を持つのは秋本治だ。鳥山明が著作権を持つのは「Dr.スランプ」や「ドラゴンボール」等であり、北条司は「キャッツアイ」に「シティハンター」等の著作権を持つ。
 これがアメリカン・コミックにおいては事情が異なる。
 現在ではそうでない場合もあるけれど、アメコミにおける著作権は慣例的に出版社が有する。
 先の例で言うなら、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の著作権は作者の秋本治にはなくて版元の集英社が持ち、これを根拠に編集部の裁量で連載の続きを誰か別の作家に描かせることができるのだ。作品がマンネリ化してると編集部が判断したなら、秋本治から尾田栄一郎にバトンタッチさせることも大いにあり得るわけだ。
 だからといって両津勘吉が悪魔の実を食べてゴム人間になる、なんて展開は許されないだろう。そのあたりの舵取りは編集部が取るはずだ。
 このようにアメコミでは、作品と作家を結ぶ線は一本というわけではなく、作品に携わった作家の数だけ線が結ばれるわけだ。
 よくよく考えるとわかることだ。バットマンが登場したのは1939年の「Detective Comics」誌27号だ。スーパーマンはさらに前年の「Action Comics」誌創刊号で初登場だ。いずれも75年以上も前のこと。その頃の作家が存命のわけがない。それでいてバットマンもスーパーマンも連載が続いているのは、作家に著作権がなく出版社がそれを有するのが理由だ。
 様々な作家がリレーのように描き続けて、ヒーロー譚は現在に至る。
 DCは2011年のリランチ以降、そして2015年11月現在に至るまで、「バットマン」誌の作り手にスコット・スナイダーとグレッグ・カプロを指名し、彼らはそれに見事に応えている。

 アメコミ出版社のすべてが刊行作品の著作権を有するわけではない。
 作家のなかには作品における作家性を重んじる者もいて、作家自らが著作権を持つことが増えているようだ。これを「クリエイター・オウンド」という。

amazon:[単行本] バットマン:ハッシュ 完全版  さて、『バットマン:梟の法廷』を読み終えた私は、闇の騎士の物語に夢中になった。格別の読書体験が齎してくれる昂揚だ。
 書泉ブックタワーに通ううちに、バットマンの物語が第2巻に続くと了解した私は(試し読み万歳!)、実は『梟の法廷』とともに続巻である『バットマン:梟の街』を買っていた。「きっと素晴らしい読書体験になるに違いない」との嗅覚が働いたのだ(そしてそれは本当になった!)。
 勢いにあかせて二冊を読んだ後、頭ン中が闇夜のゴッサムシティと化すなかで、ひとつの決断を下す。
 翌日、清水の舞台から飛び降りながら二冊のアメコミ翻訳本を買った。
 一冊は『バットマン:梟の夜』であり、もう一冊は『バットマン:ハッシュ 完全版』である。
 もうね、『梟の夜』はともかく、『ハッシュ 完全版』は「完全版」の響きに撃たれちゃったのだなあ、きっと。
 先に読んだのは『バットマン:ハッシュ 完全版』である。この本は「梟の法廷」とは関連のない、まったく別の物語だ。
 なぜ『バットマン:梟の夜』に手を出さなかったのか? 続けて読めばいいのに。
 その答えは、「ちょっと絵がバタ臭かったから」。
 なるほど。
 これまでに述べてきた内容から、「出版社が著作権を有することから、作品に関して作家を自由に配置できるわけだね?」とお考えかもしれません。グレッグ・カプロのかわりに誰かバタ臭い作家が「バットマン」誌を引き継いだ、と。
 違います。
 出版社が作家を隷属させているわけではないだろうし、それにグレッグ・カプロがスコット・スナイダーととも「バットマン」誌を担当していることは前述している。「2015年11月現在に至るまで」と。
 そもそも問題はそこにはないのである。
 私が一時的にとはいえ読むのを避けた理由にして、試し読みにて確認した絵柄の違いは、作家の違いではあるのだけれどそれは「バットマン」誌における作家の交代劇ではなくて、この問題は「クロスオーバー」に収斂している。
 嗚呼、「エイジ・オブ・アポカリプス」で悩まされた、あの「クロスオーバー」。

 悪夢のクロスオーバー!

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