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エメラルドグリーンの男

 2009年6月13日。ひとりのプロレスラーが死んだ。
 三沢光晴。
 享年四十六歳。あまりにも早すぎる死であった。
 奇しくもその死の翌日は、プロレスラーを題材にとった映画の日本における公開初日であった。
 ミッキー・ローク主演、ダーレン・アロノフスキー監督作品の「レスラー」だ。都内においても上映館は数えるほどしかなかった本作だが、そのうちの一館であるシャンテシネ(現在のTOHOシネマズシャンテ)には、初回の上映に大勢の観客がつめかけた。私もそのひとりだ。
 あれは映画ファンだったのか。それともプロレスファンだったのだろうか。前日の訃報に対して自分のなかで決着をつけるために物語を欲したものだろうか。
 私自身、訃報に接して衝動的に映画館に足を運んだということを記憶している。思いもしなかった喪失感を覚えて、何かでそれを埋めなければならないと思い込んだのだ。

 本日は6月13日。命日である。あれから六年経ったわけで。この六年でいろいろなことがあった。
 今回は、当時に「レスラー」を取り上げた記事に若干の手を加えて再掲する。

amazon:[Blu-ray] レスラー  胸が詰まった。プロレスラーという生き様に。
 1980年代、マジソンスクエアガーデンを超満員にしたランディ"ザ・ラム"ロビンソン。かつてアメリカ合衆国の栄光を体現した男は、今は老いた肉体に鞭打つ日々を送っている。筋肉増強剤を打ち、歯を食いしばるようなトレーニングを自らに課す。美容院と日焼けサロンに通って外見に気を配る。すべてはリング映えする肉体を作るため。
 ランディは現役のプロレスラーなのだ。
 かつての大スターといえども今はしがないロートルレスラー。トレーラーハウスに住み、その家賃すら滞納する経済状態。プロレスだけでは生活がたちゆかないから、スーパーマーケットの仕事をする。しかし買い物客の前には決して出ない。彼らはスーパーマーケットの顧客であってランディの観客ではないからだ。
 そんなランディもひとたびリングに上がれば往年の輝きを取り戻す。ファンの歓声に全力で応える。長年の酷使で不満をこぼす肉体を宥めつつ、最高のパフォーマンスを繰り広げるのがプロレスラー、ランディ"ザ・ラム"ロビンソンだ。

 本作では、多くの場面でカメラがランディの後ろ姿を追う。ズンズンと進むその背中が雄弁だ。背中はランディの気持ちを代弁する。そして、彼はその背中で観客を引っ張ってゆく。
 ランディの生き様が投影される背中は、同時に彼の去り行く姿でもある。背中を追うことを繰り返すうちに、観客は彼を見送ることの心の準備ができる。
 説得力のある背中だ。肉体で語ることを選んだ、プロレスラーの背中だ。

 数多くの試合をこなすプロレスラーは満身創痍だ。痛む古傷や持病と折り合いをつけてリングに上がる。テレビ中継のない試合はファイトマネーもたかがしれている。キャパシティの小さな会場であっても、そこにファンがいるならば全力を尽くすのがプロフェッショナルの仕事だ。
 最高のパフォーマンスのためには如何なる手段も講じる。本作ではプロレスの舞台裏が描かれている。リング上では激しく対立する関係である対戦相手も、控え室に戻れば互いの健闘を讃え合う。対戦カードが決まれば綿密な打ち合わせをして、そのうえで熱い試合を演出する。アングルもブックも全ては試合を盛り上げる為、ファンを喜ばせる為にある。これもプロフェッショナルの仕事だ。
 プロレスラーは現実主義者だ。できることとできないことの見極めが重要。だが、現実のなかにロマンを現出せしめる魔法を知っている。

 自分の身を削ってファンを喜ばせるランディはイエス・キリストになぞらえることができる。ランディの友人であるストリッパーが、メル・ギブソン監督作品「パッション」について語る場面がある。全編、キリストへの拷問に終始する作品を思い出して気付いた。
 拷問され十字架を背負わされ、ゴルゴタの丘で処刑されたキリストの受難が何を意味するのか。"神の子"は、すべての人の罪を背負って逝ったのだ。
 衆人環視のなかの受難ならばプロレスラーもまた同じ。痛めつけられて傷を負い、闘うことのない人々に代わって血を流す。

 プロレスは現代に生きる野蛮な祝祭だ。試合が進むほどに会場の熱気は最高潮に達する。
 さあ、メインイベントだ。二十年の時を経て、伝説の対戦が甦る。
 心臓発作を起こし、バイパス手術を受けたランディ。彼は主治医にプロレスを禁じられる。退院後に参加したファン感謝祭で、かつて共に一世を風靡した仲間たちの悲惨な現状を目の当たりにする。杖や車椅子に頼る生活を余儀なくされ、そして何の保障もない。
 身ひとつで生きてゆかなくてはならないプロレスラー。それなのに、その唯一の資本すら目減りしてゆく。
 プロレスラー、ランディ"ザ・ラム"ロビンソンに将来がないことを実感した男は、ここに至って引退を決意する。これ以降、彼の呼び名は変わる。それは本名のラムジンスキであったり惣菜売場のロビンであったりする。アルバイト先では絶対に客前に出なかったランディが、意を決して惣菜売場に足を踏み入れる。試合では歓声に迎えられていた彼も、ここではただの店員だ。
 作業をおぼえて自信をつけたものか、肉体で語ってきた男が客との会話に興じる。プロレスラーの生き方を貫いたがために疎遠となってしまった娘と再会を果たし、関係を修復することができた。想いを寄せるストリッパーとは互いの距離が縮まったように感じられる。
 慎ましいが幸せを感じられる。新たな人生は今のところ順風満帆といえるだろう。
 けれど、ひとつでも歯車が噛み合わなくなれば、すべてが狂う。
 恋愛も家族も仕事も失った。否、自ら手放したラムジンスキは、もう一度ランディに戻るべくリングに上がる。ここが居場所だ。自分はここでしか生きてゆけない。
 何よりも大事なことがある。ファンが待っているのだ。
 年増のストリッパーにチップを払う客は滅多にいない。キャシディは引退を決めている。パムに戻るのだ。
 しかしラムジンスキはプロレスラー以外にはなれない。死ぬまでプロレスラーだ。最期の一瞬までランディ"ザ・ラム"ロビンソンだ。
 忍び寄る発作を感じつつも全力を尽くすランディと、彼を心配して会場に駆け付けたパムの視線は交わらない。
 パムは舞台を降りて息子と生きてゆくことを決めた。自分や自分に近しい誰かのために生き方を変えるのではなく、プロレスファンのためにリングに上がることをランディは己に求めた。この試合だけ復活するボブとは違う。中古車販売の事業が軌道に乗る商売人とは異なり、ランディは生涯をプロレスに捧げるのだ。
 ランディとパム、二人の道は一時交わっただけ。同じ道を歩むことは決してない。

 さあ、そのときが来た。
 これまでその背中ばかりを見せていたランディだが、最後はトップロープの上、必殺のラム・ジャムを宿敵アヤットーラにお見舞いせんとする雄姿を、観客の網膜に焼き付けた。

 ランディ"ザ・ラム"ロビンソンのタイツは三沢光晴のそれとは色が若干異なるものの、明るい緑色が共通していて、このシンクロニシティに感慨を抱く。リング上で命を燃やし尽くしたプロレスラーの冥福を祈る。

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