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さよならの向こう側

amazon:[Blu-ray] 伝説から神話へ 日本武道館さよならコンサート・ライブ  ミステリ専門書店TRICK+TRAP。
 小林まりこ女史が吉祥寺に店を構えたのが2003年3月。
 その後、戸川安宣氏が経営に参画するようになる。品揃えからイベントの立案実行まで、当時であってもユニークな存在であるミステリ専門書店を盛り立てようと、斯界の名伯楽は苦心されていたようで。
 その甲斐あって、TRICK+TRAPは吉祥寺在住のミステリ好きのみならず、他県からもミステリ好きが足を運ぶ本屋となった。
 このあたりの事情は、西荻窪の「beco cafe」にて催されたトークイベントを取り上げた際に纏めてある(纏めきれてないとの評判はあるけれど)。
 そのときに軽く触れたが、規模の小さな書店が取次と取り引きをするのに、その条件の厳しさから取次口座を開くことが難しい。独力で取次口座を持てず、そのために取次と取り引きがなできないとなると、書店経営は暗礁に乗り上げる。このように、新規参入への大きな障壁となって取次口座。現在、これを開くのを支援する民間サービスがある。
 厳密には、零細書店が単独で取次口座を持つわけではない。店の名義で取次口座を利用できるようになる、というのが本当のところだ。
 店を閉めて七年。TRICK+TRAPはこの取次口座を有していたのだが、このたびこれを返上しよう、と。「返上」というのは適当ではないかもしれない。「閉鎖」とするべきか。とにかく、取次口座を利用する権利を手放すこととなった。
 この節目に、「何かイベントを」ということで、ミステリ専門書店としてのトリを務めていただくのは、やはり島田荘司御大だろう、と。
 伝説の島田荘司サイン会が開催されることとなった。

 島田荘司サイン会が伝説となったのは、南雲堂から刊行の「島田荘司全集」、その第一巻刊行記念サイン会があまりにも破格であったため。それは、関係者参加者の誰ひとりとして予想だにしなかったに違いない。まさに異常事態。
 ふつう、サイン会ではサイン対象書籍にサインを入れてもらって、作家がペンを走らせる僅かな時間に、本の感想だとかちょっとした質問だとかのささいな交流を果たすもの。
 話が弾んでサインを書き終えた後も言葉を交わすことはあっても、後に並ぶファンを待たせるわけにはゆかないし、会場利用には刻限があるので、「話し込む」というレベルでファンとの交流を図ることはない。
 じっくり腰を据えてファンと語らいたい。作家サイドにその気持ちはあっても、イベントを滞りなく進めるために、会場で忙しく立ち働く書店員や担当編集者の心情や、あるいは長い時間待たされるファンの疲労を考慮して、実行に移さないのが「大人」なのだろう。
 島田荘司という人物は偉大なミステリ作家であり、その名は日本ミステリ史に燦然と輝く、そんな存在だけれど、決して「大人」ではない。勿論、常識知らずというわけではないが、時にあえて常識をうっちゃるが如き行動に出る。
 この破格の作家は、サイン会に訪れたファンと数分の会話を持つ。「さて、何を話しましょうか」と水を向けることさえする。
 そのとき、ファンが選りにも選って作家志望だと口にしたなら、このベテラン作家の目は喜びに輝き、口調には熱がこもり、激励の言葉はとめどなく溢れ出るという。
 サービス精神には頭が下がるけれど、その一方で待ち時間の長さに驚かされる。ひとりあたりかなりの時間を要するため、いつまで経っても自分の順番が回ってこない。
 進行の遅れは等差級数的に広がってゆき、常識では考えられないレベルとなって。

 もう笑うしかない。

 この「島田荘司式」の嚆矢となったのが、TRICK+TRAPでのサイン会である。
 時間の迷宮に迷い込んだかのような「いつまで経っても終わらないサイン会」は、時を経て今もなお語り草となっている。
 時は流れ、ミステリ専門書店は閉店。「島田荘司全集」刊行記念サイン会は吉祥寺から新宿の南雲堂社屋へと舞台を移し、これまで継続されてきた。ありがたいことである。
 取次口座の閉鎖によって「TRICK+TRAP」の店名は出版流通業界から消える。
 決して少なくない数のミステリ読者から愛された本屋の最期を見送るには、やはり破格の葬礼が相応しい。
 南雲堂出版、『島田荘司全集』第六巻を刊行。西荻窪beco cafeにて「TRICK+TRAP」の名を冠したサイン会が開催される。

amazon:[単行本] 島田荘司全集VI  サイン会当日。会場となったbeco cafeには予想通りの光景が。
 西荻窪駅からさほど離れているわけでもないが、路地を入った住宅地に店を構えるこのブックカフェは、失礼を承知で申し上げると、店内はそんなに広くない。キャパシティーに見合った人数が入店するなら心地好いのだろうけれど、この日は収容能力をやや超過していたようで。
 このたびのサイン会は、これまでの島田荘司サイン会がそうであったように、時間を区切っての入れ替え制。一時間あたりの人数を決めて、参加申込受付の際に「13時の回です」等と返信。これならイベント開始から最後までをずっと待たされるようなことはない。参加者は返信メールに記載の時刻までに現着すればよいわけで。
 参加者の待ち時間を少しでもなくすのに、この方法は間違ってない。ただし、予定通りに事が進めば、だけれど。
 戸川安宣氏は一時間あたり十人を考えていたようだ。単純計算でひとり六分の時間を設けたことになる。
 持ち時間六分は長い。これほどの時間をとるのは、ふつうのサイン会では考えられない。
 それでも超過してしまうのが島田荘司という作家なのだ。傍らには南雲堂の社員の方が様々にフォローしておられるのだが(フォローのうち、最も重要なそれは時間経過を通知することにある!)、日本ミステリ界のジャガーノートを制御できるはずもない。
 私自身は16時の回に組み込まれたのだけど、会場に到着したとき、まだ14時の回の参加者が残っていて、つまりまるまる一時間以上も予定より遅れているわけで。
 ありえない。ふつうなら考えられない。
 でも、これは島田荘司サイン会なのだ。こんな事態も織り込み済み。作家が破格ならファンも破格である。
 待ち時間が長ければ長いほど、ファン同士の交流が広がり、深まる。これはこれで楽しい。

 本格的なパズル志向のミステリを愛する者にとって、日常会話でその趣味を話題にする機会は絶無に等しい。
 読書を趣味とするなら必ずミステリを読むというわけではない。本格ミステリならばなおさらだ。好き嫌いの分かれるジャンルではある。
 なにしろ題材が犯罪だ。しかも実行不可能と思われる、いかにも作り物めいた、現実ではお目にかかれないような、そんな犯罪。
 不可能犯罪ほど不穏当な話題は、世の中にそうそうあるものではない。バラバラも猛毒も無差別も、朝夕の登下校のさなかに、公園での井戸端会議で、夜の赤提灯において、俎上に載せられることはないらしい。
 話したいことがあるのにそれに相応しい場がない。
 読書自体はきわめて個人的な体験である。しかし、良書傑作との出会いを、その喜びを同好の士と分かち合いたい、というのも実感できるわけで。
 ミステリ好きにとって、このような気持ちに応えてくれるのがTRICK+TRAPだった。通常業務において、サイン会等のイベントの場で、それぞれの場面で最近読んだ本だとか好きな作家や作品とかについて大いに語らう。それができる稀少な機会を与えてくれる空間だった。
 この日、2014年6月21日。TRICK+TRAPはミステリ専門書店として、ミステリ読者が交流を果たす最後の機会を与えてくれた。

amazon:[Blu-ray] 少女たちの羅針盤 (特典DVD付2枚組)  いやあ、話した。なにせ待ち時間はたっぷりある。アレもコレもと話題にして、それでも時間が余るほど。
 ひとつの出会いがあった。
 島田荘司氏は広島県福山市の出身。故郷福山市と本格ミステリのさらなる発展を期して、氏は福山市との驚くべきコラボレーションを実現する。
 最終選考を島田荘司氏ひとりが務めるという「島田荘司選 ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」は、地方自治体が主催する文学新人賞には稀な長編ミステリを対象とする。
 この文学賞のユニークな点は、新作長編を募っているところ。しかもジャンルをミステリに限定しており、さらに本格的なパズル志向のものが望ましい、と。
 本格ミステリを求めるには理由がある。
 魅力ある謎を解きほぐす論理の味わいを楽しむところにミステリの本質があり、この特異なジャンルの発展を促すには、謎と解決を結ぶ論理の見事な作品が必要不可欠。こうした考えがあって、だからことさらに「本格ミステリ」を特に求めるものである。
 また、受賞作品は刊行が約束されていることも、地方自治体が主催する文学賞には珍しいだろう。
 珍しいといえば、ふつう公募文学賞では「継続して当該ジャンルを発表できる、ある程度の量産の才を有する」ことを云々されるものではないけれど、破格の最終選考委員は即戦力を求めるがあまりにこれに言及している。応募資格について「受賞作以降も書き続ける意志のある方が望ましい」と明記があり、受賞後、向こう三年のうちにその作品を含めて三作品は物してほしい、と。
 とにもかくにも異例尽くしの「島田荘司選 ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」。本格ミステリに特化しているだけに、これまでの、そして今後の受賞作品に期待してしまう。
 この文学新人賞では受賞作とは別に優秀作も選出され、また、一回につき受賞作が一作品に限るものではないようだ。これまでに第六回の選考があり、受賞作・優秀作を合わせて十三作品が選ばれている。「13」という、ミステリ的に縁起の良い数字が、今このときに「島田荘司選 ばらのまち福山ミステリー文学新人賞」を取り上げることの運命のようなものを感じる。ただの偶然だけど。
 当日のサイン会に、島田荘司御大によって新たに見出されたミステリ作家のうち、ひとりが参加していた。

 以前に参加したトークイベントでもそうだったのだが、会場を提供したbeco cafeは貸切状態。そのため一般客の来店は見込めず。通常営業ができないそのかわりに、サイン会参加者が入店時にドリンクのオーダーをすることに。
 ドリンクのメニューにはソフトドリンクもあればアルコール飲料もあって。
 サイン会当日は夏至。日の高いうちからビールを何杯も呷る若者。それが新進気鋭のミステリ作家だ。他の参加者と熱く語らい、本が読まれていること、ミステリが愛されていることに感じ入って、さらにアルコールが進む。
 こんなふうに書いてしまってはその名を出すのは躊躇われる。ただの酒飲みとしか書いてないことに今さらながら気付いた。申し訳ない。
 受賞作品がこの夏に刊行予定とのことで、これを買って読ませていただくことで謝罪としたい。

amazon:[コミック] ミタライ 探偵御手洗潔の事件記録(3) (モーニングKC)  時刻は正確にはわからないが、待ち続けた身にもついに対面の時は来た。
 購入したばかりの『島田荘司全集』第六巻にサインを入れていただいて、そしてお話しするのだが。これが実は苦手。何を話してよいかわからないのだ。
 そもそもがコミュニケーションに難のある私。そのうえ舞い上がってしまってはただの不審者である。まあ、通報されてないようなので、言動は一般的な振る舞いの範疇に入るものだったのだろう。
 それはそれとして、サイン会の開始から何時間経ったのかわからないけど、島田荘司御大のタフなことといったら! 疲れを少しも見せずに「島田節」全開!
 ちょっと待ち疲れした自分が恥ずかしくなったよ。
 交わされた会話についてはここで明かすことはしない。参加者がそれぞれに持ち帰ればよい。自分だけの書棚に大事に飾るもよし。趣味を同じくする者との楽しい時間に供するもよし。私はしないけど、自らの体験談としてブログに記事を書くもよし。
 良書や傑作はそれを読まなければ死ぬというものではない。しかし、良書を読み、傑作に出会うことで人生は豊かになるような気がする。サイン会が開かれないからと作家やその著作への評価が下がることは絶対にないけれど、島田荘司というミステリ界の巨人はサイン会で何度もお会いしているうちに、自分のなかで特別な存在となっているのを否定しない。「いつもありがとうございます」と仰られたら感激しちゃうよね。
 言説のすべてに賛意を示すものではないが、島田荘司というミステリ作家を応援することについてはここに断言する。ミステリの発展のために尽力する点については謝意を。
 ありがとうございます。

 これにてTRICK+TRAPはミステリ専門書店としての歴史に幕を下ろす。「島田荘司全集」刊行時恒例のサイン会は、南雲堂で開催されるようだ。またお世話になります。
 世界はTRICK+TRAPを失ったわけだが、TRICK+TRAPのなかった時代に後戻りするわけではない。私たちは知ってしまったわけで。ミステリ読者の幸せな時間と空間があることを、そんな本屋があったことを。

 だから、きっと大丈夫だろう。

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