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現代人には向かない職業

amazon:[文庫] 女には向かない職業 (ハヤカワ・ミステリ文庫)  今を去ること1月24日。西荻窪「beco cafe」で催されたトークイベントは、第十三回を数える「beco talk」。主催の空犬氏が戸川安宣氏をトークゲストに招いて、「吉祥寺で本屋をやってみたら ~ミステリー専門店『TRICK+TRAP』の1400日~」と題し、吉祥寺の町とジャンルに偏りのある書店について語る約二時間。
 TRICK+TRAPは2003年3月から2007年2月まで存在したミステリ専門書店。オーナーは小林まりこ女史。本来は書店経営とは無縁の彼女だが、ミステリ好きということで店を始めて。
 TRICK+TRAPの約四年の営業期間。これを支えたのは小林女史だけではない。
 この店に関わり、経営に携わることになった戸川安宣氏は、東京創元社の会長職まで務めた出版人。「歴代社長のなかで、社長でありながら一番多くの本を作った男」との逸話を持つ、生粋の編集者。ミステリ界の生ける伝説。
 この編集者に空犬氏は「町の本屋さん」としての体験談や意見を伺おう、と。
 先に述べたように二時間ほどのイベントだが、こうして纏めてみると大した分量になるもので。イヤ、これは私の纏め方に問題があるのだろうけれど。一回の記事で纏められると思ったところが然に非ず。二回に分けることとなった。
 というわけで、前回に続いて今回も「beco talk」を取り上げる。

 前回記事でも述べているが、文中の事実誤認はすべて筆者であるサテヒデオに責任がある。
 この「beco talk」は、アルコールの許されるイベントだ。イベント会場を提供してくれる「beco cafe」に敬意を表して、飲むつもりがなくともビールを注文してしまう不思議。
 酒が入ると途端に不明瞭となる記憶。風が吹けば桶屋が儲かる式に記憶が定かでなくなるというのも仕方のないこと。
 だからというわけではないけど、ひとつご寛恕いただきますよう宜しくお願いします。

amazon:[文庫] 私の大好きな探偵―仁木兄妹の事件簿 (ポプラ文庫ピュアフル)  地元民にTRICK+TRAPという本屋があることを示したサイン会。おかげで日々の売り上げも上向いて。
 客が増えるとなると、自然とその要望や意見も数多く拾えるものだ。それらの声が品揃えに反映されるわけで。
 そもそも、TRICK+TRAPの売れ行きは一般書店のそれとは異なる。赤川次郎氏の諸作品に代表される、駅の売店やコンビにでも棚に並ぶような売れ筋はこの店では売れない。全然売れない。
 現行売り上げランキングの上位にあるようなタイトルは他店で既に買っている。そんな本好きがTRICK+TRAPの常連客。そんな客は「他店では置いてないような本」を求めてミステリ専門書店の扉を開ける。だからサイン本もそうだし、絶版されないまでも売れ行きが鈍って出版社に返本されるタイトルもそうだ。
 だいたいがTRICK+TRAPには店頭在庫六千冊という縛りがあって、だから大手書店と同じ店頭展開ができるはずもない。一般書店の店頭に見つけることのできない本を置く。痒いところに手の届く品揃え。それこそがミステリ専門書店として生き残る道筋だったのだろう。
 小林女史が店をオープンした際の店頭在庫は取次主導の品揃えだったということだ。そこに「TRICK+TRAPらしさ」というものはなかった。確かに、ミステリ専門書店と呼ぶに相応しいタイトルばかりではあった。しかし、それはTRICK+TRAPらしいものではなかったということ。客の求めるところとの隔たりがあった。
 それはそれで仕方のないことだが、限りある収容スペースを売れない本で埋めるのは場所を殺すも同然。
 この状態を変えるため、TRICK+TRAPは一度リニューアルをしている。その内容は、店頭在庫のすべてを一旦返本し、TRICK+TRAPらしいタイトルを揃えるというもの。
 客観的に見てもTRICK+TRAPは地力に劣る。一般書店と同じ品揃えでは勝負できないと考えたのだろう。

 前回、取次は出版社と書店とを結ぶ役割と述べた。確かに流通の要ではある。ただし問題がないわけではなくて。
 日に何百何千と刊行される出版物。北は北海道から南は沖縄まで、店毎に卸す冊数をその都度いちいち決めていたら業務がパンクしてしまう。
 それを避けるためにデータ配本・パターン配本というシステムがある。
 TRICK+TRAPはこのシステムの恩恵に浴するわけにはゆかなかった。九坪の店内、文庫を中心とした六千冊の店頭在庫。そもそも売れ筋が一般書店とは異なるため、出版物を「入れては返す」という一般的な商品の流れをそのまま踏襲できない。
 回転のはやい店頭棚の、そのサイクルから外れたタイトルをこそ求められている。そういう認識があるのでなおさら店側が入荷をコントロールしなければならない。
 それには少なからず弊害もあって。

amazon:[Limited Edition] クレイジー・キャッツ・デラックス(紙ジャケット仕様)  自動的に配本が決まるということは、書店がいちいち注文を出さずともよいわけで。つまり、パターン配本の恩恵に浴さない書店は、近刊予定をチェックして注文をその都度出さなければならないのだ。
 戸川氏によると、取次には零細書店の店舗毎にダンボール箱が用意されていて、その店から注文のあった本を入れてゆく、とのこと。取次は、箱いっぱいに本がたまってはじめて出荷する。
 このシステムだと欲しいときに欲しいタイトルを入荷できない場合がある。
 TRICK+TRAPの近所に住むという霞流一氏は、サイン本に協力してくれる等、オープン当初から良い関係を築いていた。あるとき、その霞流一氏の新刊が上梓されるとあって、TRICK+TRAPでも五冊ほど置くことにした。
 ここで五冊の入荷を少ないと思う向きがあるかもしれない。「たった五冊なの?」と。しかし、「二冊売れればベストセラー!」がTRICK+TRAPの実績だったことを思えば、五冊というのは随分と思い切った決断である。
 こういう点からも、TRICK+TRAPが一般書店の売り上げランキングとはその内容を異にすることがわかるだろう。「最近、評判となっている本」を求めるのではなく、「自分の読みたい本」を買う店だったのだ。
 霞流一氏の最新刊。刊行に先駆けて注文した五冊。しかし、これが全然来ない。送られてくる気配がない。督促にも応じてもらえない。
 これはダメだと再度二冊を注文。この二冊というのは、先の五冊に加えて、ということではない。最も売れるであろう時機を逸したということで五冊は売れないものと考え、だから三冊を減じたわけだ。それでも、いくら待っても一向に送られてこない。
 結局、刊行から三ヶ月ほど経って七冊の配本があった。
 これには戸川安宣氏、怒りに怒った。五冊の注文が通らなかったと思ったからこそ改めて二冊を注文しなおしたのに、売れる頃合いをずっと過ぎてから七冊を送ってくるとはどういうことだ!
 誠に遺憾に存じます。

amazon:[ペーパーバック] そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)  そもそも編集者の戸川安宣氏。成り行きとはいえ書店員になったものの、慣れないことにやりにくさを感じなかったのか?
 それが全く感じなかったらしい。
 元来が本好き。読者が編集者になって、編集者になってからも書店通いは続けて、独身時代も結婚後、転居してからも馴染みの書店を作って。
 積み重ねるとどれほど膨大な時間がそこに立ち現れるかわからないけど、戸川安宣氏が本屋で過ごした時間に見聞きしたことは、氏の血肉となっていて。だから、特に戸惑うことなく書店員への転身を果たせたとのこと。
 そのうえで、書店員となったことで得た経験は、編集者であったなら得られないものだった、と。
 出版物の評判は、売れ行きや書評等でつかむことができる。また、読者カードなりで読者の声を受け取れるけれど、それは一部の熱烈なファンからのものにすぎない。書店に足を運んで「この本が好きなんです」とか「あの作家のあのシリーズを集めてるんですけど」とかの貴重な意見や要望をくださる「お客様」との交流は、編集部にいるだけでは得難いものだった。
 出版業界には、仕事をしない業界人を揶揄する、こんな言葉があるそうだ。
 書店に行かない編集者、本を読まない営業マン。
 揶揄する一方で自戒を込めてもいたその箴言は、書店員となったことでことさらに実感できるようになって。
 東京創元社はともかくとして、TRICK+TRAPに勤めてからというもの、通常営業時に出版社のは営業マンが訪れたことは、一社を除いてなかったとのこと(サイン会等のイベントの際は顔を見せるらしいけれど)。
 その一社とは早川書房。一ヶ月に一度くらいの頻度ではあったものの、来てくれればその労に報いたくなるもの。だから早川書房の本を置きたくなって。
 早川書房はアガサ・クリスティの諸作をハヤカワミステリ文庫で出していたが、これを「クリスティー文庫」としてレーベルの統一を図った。判型もフォントの大きさも変更しての大々的なリニューアル。
 ならば、早川ミステリ文庫の在庫となっているクリスティ作品を全部引き取ると戸川氏。早川書房の営業マン曰く、「こんな注文は受けたことがない」。

amazon:[単行本] 天使と悪魔―ヴィジュアル愛蔵版  空犬氏からの「これから独立系書店の起業を志す人に向けての言葉を」と水を向けられた戸川安宣氏は、存外にというか想像通りにというか、耳の痛いことを。
 戸川氏が東京創元社に入社したのは1970年。当時はあの東京創元社でさえ文庫の初版は二万部、売れそうにないと見越したタイトルであっても一万八千部を刊行していたそうだ。そのうえ重版は必ずかかっていた、と。
 そもそもは「本の墓場」と呼ばれ、これより落ちることはないけどずっと重版はされるものとの認識のあった文庫本。廉価であり、手軽であり、入手しやすい。そういう認識のあったのが文庫である。
 それが今や初刷りの数は抑えられ(一万部を切るらしい)、重版はかかるかどうかわからない。
 岩波書店が先鞭をつけた「復刊フェア」だが、今では各社がこれに倣う。その意味も本来のそれとは変わってしまっている。現在の「復刊フェア」は重版のための方便にすぎない。膨大な数を誇るタイトルから売れるものを探るためのマーケティング手法でしかない。
 このように、昔と今とでは業界をめぐる状況が激変してしまっている。そのうえで本屋を目指すというのは、業界に生きる者としては喜ばしくあるものの、諸手を挙げて賛成というわけにはゆかない。
 本は薄利多売の商材だ。電話一本をかけるのにも十円がかかるわけで。この十円の経費を取り戻すのも大変なのだ。業務上の連絡であっても気軽に電話をかけられない。それほどに経営は苦しい。
 TRICK+TRAPは別に本業を持つ小林女史だから実現できた。
 この店の損失をカバーできる経済的背景がオーナーにはあって、だから夢のような店は存続を許されていた。私が思うに、この点は否定できないだろう。
 出店した吉祥寺という場所柄にも恵まれて、しかし吉祥寺だからこそ家賃も高くて。なにしろ吉祥寺駅から徒歩で十分程度。人通りが多くて、経済価値の高い地区だということは、素人目にも理解できる。
 そんな場所で営業を継続するには相応の理由と覚悟が必要で。二児の母親となっていた小林女史は、それだけが理由ではないけれど、開店当初ほど書店経営に従事できる状況にはなくて。
 TRICK+TRAPが入っていたのはマンションだ。だから契約更新は二年に一度。ミステリ専門書店の営業期間が約四年間だったのは、二度目の契約更新をしなかったということを意味する。
 当時、店を続けられない理由は様々あった。ただし、何がなんでも経営を継続する、というだけの利益を上げられなかったのも事実。見込まれる売り上げとそれに充てられる労働とを秤にかけて、経営陣は「ここが潮時」と思い定めたわけだ。

 賛成できないとはいえ、それでも独立系書店をはじめるというのなら、情報発信に努めることが大事、と戸川氏。TRICK+TRAPもホームページや戸川氏自身によるブログ、フリーペーパーを用いて積極的に情報を発信していた。
 今はTwitterがありFacebookがある。SNSだけでなく、ありとあらゆる手段を駆使して店を宣伝し、そのうえで来店してくれた客からニーズをつかむ。
 放っておいても本が売れる時代ではなくなった。出版・印刷・製本・取次・書店と、構造的な不況のただなかにある。電子書籍にしてもそうだけれど、「売る」ために現場も事務方も動かなければならない。

 書店は取次との取り引きにおいて取引口座を持つ、と先に述べた。
 これは独立系の零細書店であるTRICK+TRAPも同じ。書店開発株式会社によって開設にこぎつけた取引口座は、実は今も死んでない。
 この春、取引口座を閉じることとなり、それをもってTRICK+TRAPは完全なる閉店を迎える。
 その記念に打ち上げ花火のようなイベントを企画しているとのことだ。
 伝説よ、再び。島田荘司氏サイン会である。
 南雲堂より刊行中の「島田荘司全集」。この六巻が春に出るはず。その機会にサイン会を開催するということだ。
 ミステリ専門書店「TRICK+TRAP」の幕引きに相応しいプロパー作家であり、イベントである。この記念すべきイベントで伝説を上回る伝説が生まれるだろうか?
 しかもサイン会の会場となるのは、このたびトークイベントが催された「beco cafe」。大丈夫か? そんなに広い店舗ではないぞ。住宅地寄りだし。
 ホントにどうなる島田荘司氏サイン会。期待と不安が綯い交ぜだ!

amazon:[文庫] 青空の卵 (創元推理文庫)  TRICK+TRAPのサイン会で思い出されるのは、もうひとりの作家。
 ミステリには、日常生活にひそむ謎を取り扱うものがある。日常系ミステリの書き手に「坂木司」がいる。この作家との出会いはTRICK+TRAPだ。岐阜で無聊をかこつ友人にサイン本を送ったのがそれだ。岐阜の友人はすぐさまファンとなり、送るだけ送っておいて自分では読んでなかった私に「なんで読んどらん!」と叱責する始末。その熱に中てられて一読したところ、これが実に面白い!
 こうして「坂木司」は私たちにとって特別な作家となった。
 この作家をデビューにまで導いたのは戸川安宣氏だ。この敏腕編集者には文章力に関する尺度があるようで、その眼鏡にかなった人には「何か書いてみませんか?」と声をかけるのだそうだ。大崎梢女史も戸川安宣氏によって作家デビューを果たしたひとり。
 その伝手で両作家ともにTRICK+TRAPにてイベントを開催。特に一方の覆面作家については他言無用のサイン会が催され、それに参加したのも良い思い出だ。
 作家「坂木司」のファンとしては、新作刊行のペースが鈍い現状を嘆くばかり。サイン会とまではいわないけれど、新作は読みたいなあ。執筆活動に専念できない個人的理由があることは伺ってるけれど、あの優しさと怒りを湛えた「坂木司」作品を読みたいねえ。

amazon:[文庫] 女には向かない職業1 (創元ライブラリ)  トークイベントの後はそのまま交流会へ移行。TRICK+TRAPを介して顔見知りとなった方も来ていて、さながら同窓会の様相を呈して。
 イベントには戸川安宣氏のご子息も来られていて、交流会に入ってからお話しをさせていただいた。
 ここでビール二杯を飲んだのがいけなかった。楽しいお酒だったのは確かだが、おかげで記憶があやふやに。時間の感覚も失われて(これは楽しかったからでもあるけど)、いつの間にやら二時間近く回っていた。
 慌てて会場を後にして、帰宅の途についた。アルコールと興奮で好い気分になって。
 そして思う。
 読書という趣味は素晴らしい。自室にいながらにして、時間と空間を飛び越えてどこにでも行ける。想像の及ぶすべての事象を見聞きし、感情は揺り動かされて高揚したり落ち込んだりする。
 素晴らしき読書体験のガイドとなるのが本屋だ。店内に一歩足を踏み入れると、そこには生涯をかけても踏破できないほどの「世界」が広がっている。
 ミステリ専門書店「TRICK+TRAP」には六千冊分の「世界」があって、それらは手に取られることを待っていた。血と暴力で彩られてはいたものの、その「世界」には読者とジャンルへと向けられた作家の愛があって。
 イベント主催の空犬氏は「町には本屋さんが必要なんです会議」にも携わっておられて。都心の大手巨大書店ばかりを利用する身には耳の痛いことだ。でも、ちょっと考えればTRICK+TRAPも吉祥寺の町の本屋さんだったわけで。そして私たちはこのミステリ専門書店を失っている。
 奇跡のような店がなくなっても私たちは本を読む。最上級のミステリを味わう。
 そこに本屋があって、出会いがあって。私たちはなかなかに幸せだ。その幸せは不意に失われるかもしれないことを頭において、今はただ噛みしめる。

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Comments:2

tenmama 2014年2月 5日 20:31

素晴らしいレビューでした。我が家に積みに積まれた「世界」への入り口たち、本の海は既に収集のつかない状態になりつつあり(←控えめな表現に過ぎるだろうか)自分の生きているうちに全ての世界に乗り込めるのか甚だ心許ない身ではありますが、今後も本を買い続けるのだろうと思います。どうかこの世から本屋さんがなくなりませんように…

サテヒデオ 2014年2月 7日 21:31

tenmama様
 またもコメントありがとうございます。
 読めない本は次代へ残す埋蔵金。子々孫々と購い続ける宿業のようなものです。たぶん違うけど。
 なんだかんだで理由をつけて本を買う。本を買うのです! 買えば命の泉湧く!

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