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吉祥天の結びし縁に

 今を去る2003年3月。吉祥寺中町通り商店街にミステリ専門書店がオープンした。
 本格ミステリのジャンルで名伯楽と謳われた戸川安宣氏によると、それまでにもミステリ専門書店を銘打ったところはあったけれど、それらは売り場のかなり割合を雑誌やミステリ以外の書籍にあてるといった状態。岡崎の「ネバーランド」然り。神楽坂の「深夜プラス1」も然り。
 ミステリだけでは食えない。他に売れるものがあるのに、そのことをわかっていて売れ線を捨てる手はないわけで。だから、「ジャンル専門」を謳いながらもジャンル以外を置くことは、経営上、仕方のないことと承知していて。
 2003年の夏の頃、この書店を訪れて戸川氏は驚いた。周辺ジャンルにカテゴライズされる作品こそあれ、棚に並ぶタイトルはミステリ専門書店の名に恥じないものだった。
 本当に「ミステリ専門書店」だ!
 この奇特な店を開いたのは小林まりこ女史。料理研究に携わる彼女は、吉祥寺でその関係の販売店を出してこれを繁盛させた。その成功の褒美というわけではないが、近所に趣味を前面に打ち出した店を開く運びとになった。
 ミステリ好きの趣味が高じて生まれた店。それがミステリ専門書店「TRICK+TRAP」である。

amazon:[単行本] 本屋図鑑  1月24日、西荻窪の「beco cafe」でトークイベントが催された。
 自身も編集者である空犬氏が毎月開催する、出発・書店関連テーマのトークイベント「beco talk」。この日はその第十三弾。「吉祥寺で本屋をやってみたら ~ミステリー専門店『TRICK+TRAP』の1400日~」である。
 これまで「beco talk」は比較的若い世代の出版人や書店員を招いて、不況を叫ばれる出版業界を盛り上げようという方向からイベントを行ってきたそうだ。業界に生きてゆく若手が現状をどう考えているか、これからどのような道筋を進むのか、それぞれに語り、論ずる場であり、そこでは意見をぶつけあうことで化学反応が生まれるという。
 そこに編集者としての大先輩である戸川安宣氏を招いた今回は、だから「特別編」といえよう。
 東京創元社会長職まで務めた編集者に伺うのは、しかし編集者としてのそれではなく「町の本屋さん」としての体験談。イベントの趣旨として、そこは揺るぎなし。
 さて、どうなりますことやら。

 今回の記事はこのトークイベントを題材にしてますが、なにしろアルコールの許されるイベントでもありますので、ただでさえ不調のこの記憶装置が動作不良を起こしたやすい環境にありまして。つまり、私の記憶違いによる事実誤認が文中にあるやもしれません。
 事実に反する記述がありましたら、それはただただサテヒデオに責任があります。ご寛恕いただきますようお願い申し上げます。

 戸川安宣氏がはじめてTRICK+TRAPを訪れてまもなく、このミステリ専門書店は存続の危機を迎える。
 この店を切り盛りしていたのは小林女史ただひとり。彼女とその愛猫だけが店員だったのだが、その小林女史が第一子を妊娠。お腹のふくらみが目立つように。
 身重となっての経営は、特に客前に立つのはチト辛い。吉祥寺という場所柄、土曜日と日曜日は多くの老若男女で賑わう。隠れ家の佇まいを持つ専門書店も少なからずその恩恵に与っていた。
 客商売にはありがたくはあるけれど妊婦としてはそれがきつい。
 ならば、客足の多い土日だけでもお手伝いしましょう、と戸川氏。かくして伝説的編集者が町の本屋で店番をすることになった。

 ミステリ専門書店「TRICK+TRAP」が店を構えたのは、吉祥寺中町通りを入った先、右手に郵便局を見るその対面。一見すると普通のマンション。一階こそイタリアンレストランが営まれているものの、そのほかには特に店舗が入ってるようには見えない。その201号室がTRICK+TRAPだった。
 大々的に「本」だの「ミステリ専門書店」だのと店舗の入っていることがわかるような看板は掲げられておらず(看板自体がないわけではないけれど、こぢんまりとしていて看板というよりむしろオブジェの風情があって)、その地に何十年と根を下ろしてる地元住民でさえ来店の際に「ここに本屋があるなんて知らなかった!」と驚いたくらい。
 マンションにしか見えないのも道理。三階から上は一般の住宅である。そこは「マンションにしか見えない」のではなく、正しくマンションなのだ。
 優先されるべきは居住者の権利。だから、店自体は通りに面した一室ではあったのだけれど、それを活かした派手な看板を出すというわけにはゆかなかった。

amazon:[文庫] 夢十夜 他二篇 (岩波文庫)  こんなことがあったそうだ。
 マンションとは謳っていても新しい造りではない。自動ドアやガラス戸のように店内を覗けるような出入り口は望むべくもない。無愛想な鉄扉が入店を拒むかのように立ちふさがって。
 この鉄壁を前にしてそこから先に進めず、心挫けたミステリ好きも少なくないはず。
 まずは入店しやすい働きかけを、と考えた戸川氏。ドアをほんの少し開いておくようにした。
 店内の様子が窺えないのだから、営業中だかも定かではない。真に休みならばともかく、営業してるのにそれと知れないから入店するのに躊躇われるというのは、せっかく足を運んでくださった方に悪い。
 ドアを開いておけば、ほんの少しの隙間を作っておけば、少なくとも営業中であることはわかってもらえるだろう。
 来店客を逃さない、チャンスロスをなくす。そういう意味では尤もな発想であり、限られた条件のもとでは名案といえるものではあったが、ここでストップがかかる。マンションの組合から「ドアをきちんと閉めておくように」との苦情が。
 出る杭は打たれ、開いたドアは閉じられる。

 そういうわけだから派手な仕掛けはできない。それを反映してか日々の売り上げもはかばかしいとはいえなくて。
 戸川氏によると、TRICK+TRAP四年間の経営のうち、前半二年間は赤字とのこと。
 一日の売り上げがコンスタントに一万円の大台に乗るようになったのは、2006年に入ってからだそうだ。

 さて、妊婦だった小林女史は当然のように産前産後の休業に入るわけで。となると、誰が店を続けるの、という問題に直面する。それをそのまま引き受けたのが戸川安宣氏だ。
 諸々の事情を経て、かつては看板猫が一部で評判となっていたミステリ専門書店は、斯界の生ける伝説がレジ打ちをするミステリ専門書店となった。

 ここで店舗としてのTRICK+TRAPについて述べてみる。
 店舗用に改装済みとはいえ、本来は住居だった一室。そんなに広くない。
 戸川氏によれば九坪。角部屋で二面が窓だったところを一面潰して、そこに本棚を設えて。とにかく本棚。部屋の真ん中にも背中合わせで本棚。興味を持った本をゆっくり読めるようソファーがあるほかはすべて本棚、といってよいくらいのレイアウト。
 店頭在庫は、文庫を中心とした六千冊。この数字を多いととるか少ないととるか。
 ここで説明をしておくと、出版社と書店の間には取次がある。
 出版社は取次を通して書店に本を卸す。全国津々浦々、その一店舗一店舗に週刊少年ジャンプを送ってたら、それだけで集英社の仕事はパンクしてしまう。
 こういう流通に関わる業務を引き受けるのが取次だ。
 古書店ではなく新刊書店は新規オープンが困難とのこと。その困難は、取次との取り引きから生じるものだそうで。
 取次としては当然だ。店舗が増えるということは、販売流通ルートが増えることに繋がる。それだけではない。膨大な冊数をやりとりするなかで、納品にしても返品にしても「いつもニコニコ現金払い」とはゆかないのが現実。取り引きのある書店の倒産はその影響をモロに被ることになる。
 リスクは極力減らす。事は善し悪しで語られるものではなく、利益と損失とで秤に掛けられるもの。当然のことながら採算なき書店など相手にしていられない。取引口座を開設させない。
 この取引口座が取次との取り引きには必要であり、十坪に満たない、しかもジャンルに偏りのある書店に対して、通常は開設させてもらえないのだけれど。
 小林女史はどんな魔法を使ったのだ?
 これにはタネがある。書店開発株式会社が零細書店と取引との間に入ることで、取引口座の開設にこぎつけるらしい。
 こうして小さな独立系のミステリ専門書店は産声をあげた。

 東京創元社については非常勤の身となっていた戸川氏。TRICK+TRAPでのご奉公が毎日のものとなって感じるのは、来店客数の少なさ。売り上げがゼロというならともかく、開店から閉店まで誰ひとりとして入店がなかったことも。
 それでも「あの戸川さんが本屋をやってる」ということで、付き合いのある作家が訪ねてくれることがたびたびあった、と。
 そういう機会にはこれを逃さず店頭在庫から当該作家の著作にサインを入れてもらって。なにしろサイン本は売れるのだ。
 売れるとわかっているのだからこれを仕掛けない手はない。
 来店予定のある作家の既刊本を仕入れてこれにサインを入れてもらう。するとサイン本の置いてあることが店の評判となる。ならば次はサイン会だ。
 第一回のサイン会は西澤保彦氏と喜国雅彦・国樹由香ご夫妻の合同サイン会だったそうで。高知在住の西澤氏がわざわざ来てくれたのはありがたかった、と。
 ありがたかったのは西澤氏だけではない。喜國・国樹両氏も、その後にサイン会に応じてくださった作家諸氏も全員が手弁当だったそうだ。これには驚いた。
 実際の読者と会う機会は作家にとっても嬉しいものだとは思うけれど、しかし手弁当というのは頭が下がる。本当にありがたい。

amazon:[単行本] 島田荘司全集〈1〉  TRICK+TRAPのサイン会といえば伝説がある。全集一巻刊行の際の島田荘司氏サイン会だ。
 サイン会は、作家とファンの得難い交流の機会。一秒でも長くその場にいたいというのがファン心理だ。店側もそれは心得ていてそれまでのサイン会運営の経験から、ひとりあたり三分ほど時間がかかるものと見越していた。
 狭い店内に収容できる人員の数を把握していた店側は、一時間あたりの入店者数をコントロールしようと試みたのだが、肝心の島田荘司氏自身がイレギュラーだった。
 サイン会参加希望者には予め「この時刻までに来店してください」と連絡し、客もそれに従っていたのだが、島田荘司氏がファンとみっちりと話し込んでしまう。三分どころか十分も話すことも。
 特に「自分は作家を志してます」だの「創作をしています」だのとファンに告げられたら、御大は身を乗り出して熱っぽく語り合ったそうで。ファンが作家を放さないのではなくて、作家がファンを解放しないというのだから。
 これではタイムスケジュールなど絵に描いた餅。
 予定はズレにズレて、ファンは待ちに待って、打ち上げ会場がキャンセルされるほどにサイン会はひたすら続いて。午後一時に始まったサイン会が終わったのは十一時だったとか。戸川氏が今でも不思議に感じているのは、その間、島田荘司氏が一度もトイレに立たなかったこと。
 いろいろな意味で島田荘司という人は規格外である。
 なお、このサイン会については戸川安宣氏が自身のブログ、「パン屋のないベイカーストリートにて」の2006年10月2日の「島田荘司先生サイン会」という記事で語ってらっしゃる。そちらを読まれることをオススメする次第。

 数多く催されたサイン会は、「TRICK+TRAP」という店の存在を吉祥寺中町通り商店街に知らしめることになる。
 なにしろ狭い店内。入りきらない客が店の外にまで行列を作るものだから、それが整然としていても目立ってしまう。列を見て「何事か」と理由を尋ねる向きもあって、サイン会云々の返答からそこにミステリ専門書店があることを知る、という具合だ。
 客が店の周知に一役買ったわけだが、そのことはひっそりと暮らしたいマンション住人には我慢できることではなかったようで。
 これは島田荘司氏サイン会に限るわけではないけれど、店内に入りきらない客の作る行列が、マンション組合からの苦情を呼び込んだ。戸川氏はこの問題でも頭を痛める。

 アレ?
 長くないか?
 困った。まただよ。また一回で収められないよ。次に続いてしまうよ。たぶん次回で片付くよ。
 終わるか終わらないか判然としないのも仕方のないことなのだよ。だってまだ書き終えてないのだから。イヤ、参ったね。
 心は明日封切られる「マイティ・ソー ダーク・ワールド」に向いているのだから!

 さて、この続きはどうなっちゃうんでしょ?

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Comments:2

tenmama 2014年1月31日 12:36

一度しか訪れる機会がなかったかのお店の歴史が改めて分かった心持ちです。私はミステリに疎いのですが、ミステリ好きな友達を連れて行ってあげられなかったのが未だにすごい心残りです…。本屋経営とはかくも大変なものなのですね。またいつか様々な意味で素敵な本屋にであえるといいなーと思います。

サテヒデオ 2014年2月 1日 00:33

tenmama様
 コメントありがとうございます。
 いつまでもあると思うなTRICK+TRAP、というわけですねえ。いやあ、残念です。仕方のないところもあったようですけど。
 春に関連イベントが催されるようですから、それを御友人にお教えしてはいかがでしょう。ただし、大変なイベントになるかもしれませんが。

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