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ワタライケンヤの弁明

amazon:[文庫] 文庫版 死ねばいいのに(講談社文庫)  京極夏彦『死ねばいいのに』を読んだ。
 いやあ、楽しかった。読んでいるのが楽しくて愉しくて仕方なかった。まさに娯楽、正しく愉悦。ワクワクとドキドキで頬がゆるみっぱなし。
 さすがは京極マジック。頭の皮を剥ぐ勢いの脱帽、である。
 本書に収録されているのは六編。いずれも登場人物と物語世界の出来事が共通している、いわゆる連作短編だ。
 渡来健也という青年が、ひとりの女性について彼女の関係者を訪ねる。渡来健也が尋ねるのはその女性についてであり、他意はないのだれど、彼の話し相手は質問に答えず自分のことばかりを夢中になって話す。結果として健也は聞きたいことを聞けず、知りたいことを知り得ずして、次なる対象のもとへ話を聞きにゆく。
 彼が知りたいという女性の名前は「鹿島亜佐美」。数ヶ月前に自宅マンションで殺害された女性だ。渡来健也はその女性に四回会っている。
 渡来健也が自身についてわきまえているのは、頭が悪くて何事につけて鈍いということ。だから、他人のことはわからない。当然のように鹿島亜佐美のことを死んだ今となってもわからないでいる。
 健也は、鹿島亜佐美についていろいろと知りたいと思い、彼女と近しい間柄と思われる人物を訪ねて回っている。
 派遣先の上司
 隣人
 母親
 情夫
 果ては彼女の殺人事件を担当する捜査主任をも訪ねて警察署まで出向く。
 こうなると、彼がそこまでする理由がわからない。

 なぜ?

 渡来健也は、一見していまどきの若者らしい若者だ。身に着けているものも口調も態度も、年長者からは受けのよくないそれの集合体。
 見てくれはまあまあ立派、立派と表せないまでも特別奇妙なわけでもどこか違和感を覚えるようなものでもない。きちんとした敬語を知らず、本人は丁寧語のつもりだろう喋り方しかできず、卑屈なんだか臆病なんだかふてくされてるんだか判断できない素振りを見せる。
 彼が特別なのではない。これが今の若者なのだろう。こんな奴が明日の日本を背負って立つわけだ。前途は不安だなオイ。
 とまあ、会ってしばらくは好もしい印象を抱けず、むしろ疎ましく感じられる。それが渡来健也だ。
 では、その人となりはどんなものだろうか。
 会う人ごとに本人が語るのは、馬鹿だから真っ当じゃねえからという自己評価。謙遜というよりあまりにも率直なそれはなぜだかストンと胸におちて。でもって客観性すらそなえているようで。それを聞かされたほうもあえて異を唱える気にならない。
 こんな男が、四回会っただけの、時間に直せば十時間にも満たない、しかも恋愛感情も性交渉もあったわけではない女性について、そこまで知りたいと思うものだろうか?
 ここにおいて、先に挙げた謎が頭をもたげる。鹿島亜佐美の関係者のもとを訪ねることの、かなり面倒臭い行為を続ける動機は何だ?
 それはともかくとして、渡来健也の願いはなかなか叶わない。
 渡来健也が鹿島亜佐美の関係者を尋ね歩き、彼らに鹿島亜佐美について尋ねる。生前の彼女を知っているはずの彼らからは、しかしそれに対する正当な答えが返ってこない。渡来健也の話し相手は、誰しもが鹿島亜佐美とは別のことを語り出す。
 自分のことを。自分自身についてを。
 全員が自分語りをはじめる。

amazon:[Blu-ray] 刑事コロンボ コンプリート ブルーレイBOX  渡来健也が訪ねる相手はその誰もが彼の年長者である。「大人はたいして立派でもない」ということを実感するほどには人生経験を積んでいる。敬語をきちんと操れない程度に礼儀正しくない若者と話すのにも馴れた、「いまどきの」オジサンでありオバサンである(オジサンだのオバサンだのと呼ばれたり見做されたりすることを受け入れる者もいれば嫌がる者もいる)。
 初対面の若造の言動に対しても、そこから感じ取れる至らなさを「これくらいの若者とはそういうものだろう」と飲み込んでしまう。そこには口の利き方を知らない未熟者への年長者としての無自覚な優位感情がある。
 自分が上の立場にあると思えばこそ、若いとはいえ成人男性と二人きりになれるというもの。なかには自室に招く者も(それが外聞を気にして不本意ながら、という理由だとしても)。見知らぬ男と密室でふたりきりというのは、よくよく考えるとかなり危険な状況ではある。
 派遣先の上司が、隣人が、母親が、情夫が、果ては刑事までもが渡来健也との対話に付き合ったのには、彼が俎上に載せた鹿島亜佐美に対して、否、鹿島亜佐美と自分との関係において疚しいところがあるからだ。
 浮気も嫌がらせも所有物扱いも育児放棄もそれぞれ素直に良心に照らせば恥じるところではるけれど、日々を生きるのに精一杯で省みることなくこれまで過ごしてきた。尤もらしい理由さえ挙げて自分を正当化してきた。否、そうではない。だから仕方なかったんだ、と己の正しさを頭から信じている節もある。
 それらは「尤もらしい」だけで、およそ正当なものとはいえない。それは「理論」と呼ぶには脆弱すぎて、真っ当で率直な言葉を前にして脆くも瓦解する。

 彼らの言い分に共感できなくはない。そもそも物語が彼らの主観で進んでゆくので彼らに感情移入しやすいということもあるけれど、彼らの抱く不満は程度の差こそあれ抱いたことのあるものだ。
 何事につけて不満を見つけようとすると、何かしらアレやコレやと挙げられるものだ。家庭や職場に対する、あるいはもっと広く捉えて社会に対する不満を人は抱いている。人間関係だの景気が悪いだの挙げようと思えばいくらでも挙げられる。砂の真砂は尽きるとも世に不満の種は尽きまじ。
 物事は自分の思うとおりには進まない。他者からの評価もまた納得がゆくものではない。何につけ現状に満足できない。
 たいてい人は貶されるより褒められることを望むし、「正当な評価」という名の高評価を得ることを期待する。それが実情にあわないくらい高くても気にならない。だから何だというのだ。苦より楽を求めることの何が悪い?
 悪くはない。人の気持ちとしてそれが当然だろう。
 ただし、だからといって他者を蔑ろにしてよいわけではない。他者に危害を加えることの理由にはならない。
 それらの行為を正当化するために自分以外の何物を貶めるというのは、その対象に貶められるには相応の理由があるのだと決め付けるのは、ひとり清廉の孤高を気取っているつもりだろうか。
 滑稽だ。醜悪でさえある。
 だが滑稽だろうと醜悪だろうと、自分が他者の目からどう映るかまるで気付かず、道化師としての醜態をさらしたまま生きてゆく。それはそれである意味において幸せといえよう。たとえ当人が不幸せと感じても、その不幸は別の意味合いから生じたものだ。己の真の姿を直視することの衝撃からは逃れている。
 眼前に鏡を突きつけられるまでは。
 自らの醜悪な姿を直視せずにすむよう構築した論理は、よくよく解きほぐしてゆくと盤石どころか脆弱であることがわかる。前提条件が事実にそぐわないし、思考の組み立てに合理性がなく、結論ありきの筋道をたどっているだけ。まるで恣意的であり予定調和。およそ論理に値しない代物である。
 それでも彼らの屁理屈に共感できてしまうのは、それは彼らと社会通念を共有しているからだ。
 つまりはステレオタイプのものから「かくあるべし」といった道義の上で求められるものまで、偏見と先入観とが共通しているのだ。そこには程度の差はあるだろう。現実と虚構の違いはあれど、それでも同じ社会に属するからには同じ影響を受けている。
 私たち読者も彼ら作中人物も同じ地平の上、現代日本に生きている。
 そこにフラリと現れたのが渡来健也だ。その手には鏡が携えられている。

amazon:[単行本] 隅の老人【完全版】  ワタライケンヤ。
 ワタライは「渡来」と書く。文字通りの闖入者。異人・マレビトとしての役回りをこの若者は本作において担っている。
 偏見と先入観とを盾に自己欺瞞を堅固に守っていた者たちは、渡来健也との対話のなかで、己が知らず知らずのうちに構築した理屈に誤謬を見出す。
 渡来健也は「わからない」をわからないままに終わらせず、それを識ろう理解しようと心掛ける。だから人の話をよく聞くし、「それはちょっと違うんじゃねえの」ということには黙っていない。理解できないこと納得のゆかないことを訳知り顔で飲み込むような「大人」ではないのだ。
 だから、必然として本質に迫るような問いを発する。それは欺瞞を己のうちに宿した者には糾弾となって頭を叩く。
 そうなると、相対する者はグダグダといいわけに終始するしかない。「だって仕方ないじゃないか」って。
 いいわけがましい相手に異人は率直な言葉をぶつける。物を知らず、変に取り繕った物言いをしないことから、渡来健也の言葉に曲解の余地はない。
 避けることのできない、直球ド真ん中の潔さがある。
 彼は自分に学歴がないことも定職に就かずバイトすら長続きしないことも自ら明かしている。そのうえで自分を社会人として失格であると、それどころか屑だとさえ述べている。
 自分を屑と認める男は、しかし最後には欺瞞を抱えた者を素っ裸にする。彼らが纏っていた理屈を偏見と先入観ごと引っ剥がす。差別意識に満ちた偏見を、ダブルスタンダードでしかない先入観を、渡来健也は当人たちに気付かせる。対話のうちに、質問を重ねて。
 相手は混乱する。それも道理だ。眼前の若造によってこれまで当たり前と信じて疑いもしなかった、あるいは処世術と割り切っていたのかもしれないけれど「こう!」と定めてきた社会的認識が崩壊するのだ。常識であり正しいとしていたものの本当の姿が露わになる。「世界の真理」を気取っちゃいるけれど、実はそれは虚飾でしかないことが会って間もない男との会話のなかで明らかとなる。
 虚飾を暴いたのは渡来健也ではない。彼の言葉に触発されて、鹿島亜佐美の職場の上司が、彼女の隣人が、母親が、情夫が、鹿島亜佐美殺人事件の捜査主任が、そして弁護士が、自らのうちに巣食う偏見と先入観に気付いてしまう。それらを仰々しく纏った己の姿を直視することになる。
 一旦気付いてしまえば、もう知らないふりや見えないふりはできなくなる。偏見と先入観に自覚的な自分を頭の片隅に意識せざるを得ない。
 そこに呪いが放たれる。脳に仕掛ける時限爆弾。京極夏彦作品らしい設えだ。

 死ねばいいのに。

 どんなに苦境にあろうと「死ねばいいのに」といわれて「ハイ喜んで」という反応は無い。「喜んで」はともかくも「じゃあ死のうか」とは思わない。
 それでも「死ねばいいのに」と他人に面と向かっていわれるくらいにグダグダとくだらないことを話しているのか、と自分を省みることはあるだろう。死んだ気になってしがらみを断つ、つまらないプライドを捨てる、という決断を下すきっかけとなるかもしれない。
 意識改革の端緒となる一言。それくらいのインパクトはある。
 苦境にあってさえ生への執着はやまないというのに、ましてや幸福のただなかにあって死にたいなどと思うだろうか。

amazon:[文庫] 文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)  鹿島亜佐美殺害に関する謎は物語を牽引する要素ではあるが、「誰が鹿島亜佐美を殺したのか?」だの「なぜ彼女は殺されたのか?」だのいう謎より渡来健也の執着に意識は向く。
 なぜ渡来健也は鹿島亜佐美について知りたがるのか?
 職場の関係者からはじまり隣人情夫母親と、渡来健也の訪問先が鹿島亜佐美との関係性においてだんだんと濃密になってゆくのがわかる。たった四回会っただけの存在にそこまで執心できるものか。
 それに対して鹿島亜佐美殺害の犯人の正体については、事件についてまるで興味を示さない態度や「それについてはわかっているから」といわんばかりの言動だ。だから、確たる根拠があるわけでもないけれど、犯人が明かされる前にそれが誰かを予測できる。
 これについては犯人自身が特に秘匿しているわけでなく、「お前が犯人なのか」と問われることがなかったからあえて口にするまでもなかったのだろう。そんなことまで忖度できるほどに犯人についてその思考や行動原理まで受け入れられるようになる。
 ただし、殺害の動機がわからない。およそ殺人を犯すような人間とは思えないのだ。これも偏見だったり先入観だったりするのか?
 本作の最終章に謎の答えが記される。
 行く先々で「死ねばいいのに」と呪いをかけていった渡来健也は、実は当の本人が呪われていたのだ。生き物としての本能に根差した感情が、彼をしてあのような行動に走らせた。
 これは参った。さすがだ京極夏彦。頭の皮を剥ぐほどの脱帽である。垂れてきた血が目にしみるぜ。本作の面白さは気が遠くなるほどだが、これは出血も一因となっているかもしれない。この出血量は救急車を呼ばないといけないレベルかも。

amazon:[文庫] ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)  渡来健也には先行作品のキャラクターを想起させられる。
 韜晦ぶりからはリチャード・レヴィンソンとウイリアム・リンクの生んだロサンゼルス市警察本部殺人課の敏腕刑事を思い出させ、対話形式の物語の構成とその顛末はオルツィ夫人の創出した偏屈老人を思わせる。京極夏彦自身の先行作品、百鬼夜行シリーズの『鉄鼠の檻』に登場する明慧寺の貫首もそうだ。
 しかし、これらの作中人物よりも明確に頭に思い浮かぶのは、かつて実在したという哲学者。
 偏見と先入観との所在、その実体を自らに気付かせ、真なる自己と向き合わせる。怒りのうちに啓蒙を成し遂げる方法論を確立したその人こそ、アテナイのソクラテス。
 渡来健也にかの哲人の姿を見るのは、味噌も糞も一緒にする蛮行だろうか。
 デルフォイの神託にて巫女より賜りし言をもって、やがて「無知の知」に目覚めたソクラテス。先から自らの無知なるを自覚していた渡来健也は、鹿島亜佐美の言葉によって「死ねばいいのに」の物語を開幕させた。
 鹿島亜佐美の言葉によって渡来健也が次々に問答を仕掛けるようになったのならば(彼自身に「問答」という意識はなくとも)、やはり巫女による託宣という図式は成立する。というのは、牽強付会が過ぎるかな。

 渡来健也は異人だ。マレビトだ。来て、去るのがその本質。彼の訪問を受けた者は、誰しもが孤独を味わうこととなる。
 それまで身に纏っていた鎧を、社会通念や常識、偏見と先入観に満ちたそれらを脱ぎ捨てざるを得なくなって途方に暮れているところをひとりきりにされてしまう。それは読者も同じ。寂寥とした景色のなかに立ち尽くす。
 これもまた呪い。祓われることのない呪いだ。
 なかなかに味わい深い読後感。これは読むしかないですなあ!

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