満腹乞食 | HOME | ティファニーで酒宴を

上映中はお静かに

「フッテージ」公式サイト 「フッテージ」を観た。
 タイトルの「フッテージ」とは、映像素材の意味だ。撮影済みではあるが編集段階にない、つまり何らの加工も施されてない、「素材」としての映像のことをいう。
 フィクションにリアリティを盛り込むのに、手付かずの「素材」を提示することでこれを果たす。「素材」の一つひとつはさほどのリアリティしか持ち得なくとも、それが山と積もれば「本当らしさ」を担保するに足る。勿論、これは物語世界における「本当」であり、「現実感」だ。
 様々な媒体からなる記録をコラージュすることで、どんなに荒唐無稽な事象であっても、その信憑性を嵩上げする。ここで留意すべきは、映像素材に加工や編集の為された可能性を作中で排除することだ。その映像に対するトリックの疑惑を払拭することで、記録された事柄を事実として受け入れざるを得なくする。だから、「フッテージ」であることに意味がある。
 スマートフォンをはじめとする携帯端末が発展した現在、一般人が撮影した映像が作中で扱われることは、フィクションにおいては何の不思議もない。
 特に、撮影者の視点で事実を切り取り、物語を綴るスタイルはP.O.V.(ポイント・オブ・ビュー:主観撮影)と呼ばれ、ドキュメンタリーを模した物語形態との親和性が高い。「フェイク・ドキュメンタリー」だの「モキュメンタリー」だのといった作品では、定点撮影とともにP.O.V.の手法が、必ずといってよいくらいに採用されている。定点撮影もまた作為の介在を排除できるものと了解し得るからだ。

 この世に「物語」が生まれてから現在に至るまで、フィクションにリアリティを盛り込むのに、数多くの方法が編み出されてきた。フッテージは現時点で有効な手段のひとつだ。

 エリソン・オズワルトはノンフィクション作家だ。未解決事件を取材し、独自の視点でもってこれを捉え直す。十年前に刊行された『流血のケンタッキー』でエリソンは、警察が特定できなかった真犯人を正しく指摘し、事件の解決に寄与した。この本は爆発的な売り上げを記録し、今もノンフィクション作家エリソン・オズワルトの代名詞となっている。
 しかし、その人気も今は昔。この十年間、エリソンは「流血のケンタッキー」を超える作品を物していない。あれから同じ趣向の作品を二冊上梓しているが、これらは成功したとはいえず、そのためにオズワルト家の財政状態は火の車だ。
 今はくすぶっているけれど、ベストセラーを放てば、一躍大金持ちだ。テレビ出演や講演会、著作の映像化ともなれば莫大な契約料が懐に飛び込んでくる。再び成功を手にすることができるのだ。
 このたびオズワルト家が移住したのは、ペンシルヴァニア州キング郡。一家四人が裏庭で殺され、娘がひとり失踪した事件が起きたが解決はならず、エリソンはこの家に腰を据えて乾坤一擲の作品を物にするつもりだ。
 ここが犯罪現場とも知らず、しかしエリソンの妻は夫の執筆手法を気に入らない。自分たちはこの地域における異邦人であり、夫は地域の抱える忌まわしい過去をほじくり返すような真似をする。夫のように在宅仕事だけに邁進するなら他人の視線も気にならないだろうが、生活するうえで地域住民と関係を持つのは家事一切を取り仕切る自分であり、地域の学校に通う子どもたちだ。夫を支えたい気持ちはあるけれど、それ以上に大切にしたいのが子どもたちだ。
 睡眠障害の既往症を持つトレヴァーと、絵を描くのが好きなアシュリー。二人とも感受性が高く、環境の変化等の影響が引越し早々行動に表れる。
 心機一転、新たな目標に邁進すべく転居したその当日、新居の屋根裏でエリソンが見付けたのは、8ミリ映写機と数巻のフィルム。それぞれのフィルムには、「家族」を題材にとった映像が残っており、そして惨劇の模様がおさめられている。その一巻には、この家の前の住人であるスティーヴンソン家四人が首を縊られる様子がしっかりと!

amazon:[Blu-ray] フッテージ  本作は、ユナイテッド・シネマ豊洲で催された試写会で観た。試写会に応募しておきながら、実はそんなに期待していたわけではなかった。
 心霊写真や怪奇映像を題材にしたホラー映画には数知れない先行作品があって、その中には傑作もあれば駄作もあり、ホラーのジャンルでは定番化している。
 こういうわけだから、観る前から「たぶんこんな感じの映画なんだろうな」と内容を想像した。フィルムに焼き付けられた像が動き出したり、スクリーンや画面といった平面から飛び出したり。あるいは、映像の視聴を契機に異界に引きずり込まれる、といったものだ。
 訪れるにせよ招き寄せられるにせよ、此岸と彼岸との間に連絡が生じ、そこから現実世界が怪異によって侵犯される。このような内容を持つ映画なのだろう、と。
 実際、この想像に大きな間違いはなかった。幽霊屋敷とオカルトの融合も映像素材の扱われ方も定番の範囲から飛び出るものではなく、怖がらせ方にも新鮮味はない。結末もこの手の作品にありがちなパターンを踏襲していて、むしろ安心感さえ抱いたくらいだ。
 ここまで読むとひどくつまらない作品のように受け取れるだろうけれど、本作は本当に怖い!
 血の惨劇となって迎えたバッドエンドに安心を覚える。これはつまり、それまでずっと不安に苛まれていたということだ。緊張を強いられて、心の平安を脅かされて、しかし最凶最悪の災厄は先延ばしにされて。かたちの見えないカタストロフに対する恐怖を常に刺激され、不安定な心持ちのまま暗闇の中に放置される。いつ終わるか知れないカウントダウンに晒されて、生きた心地がしない。

 エリソンはかつて夢のような成功を経験し、そしてここしばらくその栄光から遠ざかっている。妻にも子どもたちにも不自由な生活を強いている自覚があり、一家の大黒柱としては忸怩たる思いがある。また、世間からは毀誉褒貶を浴びて、なかには自分を「過去の人」と認識する向きもあって。
 エリソンの内面は怪異よりも複雑怪奇な状態となる。
 エリソン・オズワルトの執筆活動のそもそもの動機は、警察組織の成し得なかった正義の代行にあった。それが「流血のケンタッキー」の成功で、動機に変化が生じた。
 何よりも栄光を追い求めるようになり、執筆は成功者となるための手段と化した。
 芳しくない状況からの逆転劇を夢みるエリソンのもとに、それを可能にする必勝のカードが舞い込んだ。屋根裏にあった映写機と数巻のフィルムには、ある家族とその団欒がそれぞれ撮影されており、その後に当の家族が惨たらしく殺される様子が続く。これは、否、これらのフィルムは、全部がスナッフ映像である! そのうちの一本は、エリソンが現在執筆を手掛ける、スティーヴンソン家の事件のそれである。
 こいつは凄い! とうとう金脈を掘り当てた!
 エリソンが興奮するのも無理はない。犯罪行為をそのまま撮影した記録を入手したのだ。犯罪を題材とするノンフィクション作家ならば、このネタを自分のものにすることを考えるだろう。自分の名前で発表する欲望に駆られる。に拘るはずだ。しかし善良なる市民としては、このフィルムの存在を警察に通報すべきである。なにしろ、これ以上はないというほどの犯罪記録の数々なのだから。未解決事件の捜査に役立つのは間違いない。継続捜査の名の下に捜査の終了している事件に、再捜査のきっかけを与えるだろう。これまではそれぞれが個別の事件だと思われていたのが、全米にわたる連続した事件であることを示す証拠が出てきたのだ。
 エリソンも葛藤しなかったわけではない。だが、社会正義より己の栄達を彼は優先してしまった。結果として、エリソンは事件を自分のものにした。自分の栄達のための踏み台にすることに決めたのだ。
 だからといって、この後に押し寄せる怪奇現象の数々がその報いとするのは勧善懲悪にすぎる。そんな理屈とは無関係にそれらはやってくる。
 独善的な判断があってもなくても、いずれにせよオズワルト家は災厄に見舞われただろう。

amazon:[CD] 18人の名歌手によるシューベルト:魔王  先に述べたように、エリソンを夢中にさせた映像の数々は殺人行為を撮影したものだ。そこに超自然的な現象だの存在だのは登場しないように思われた。
 しかし、最初の事件から半世紀近くの時間が経過していること、にもかかわらずどの映像にも同一人物らしき人影が変わらぬ姿で現れること、その男が自宅に出現したことを考えると、これはただのシリアルキラーではない。
 殺人鬼を描いた作品なら、それはホラーであっても「一番恐いのは人間」と謳うタイプのものであり、巷間よく目にし耳にするこの主張を私は好まない。人間を恐くはないとはいわないが、人智を超越した存在や現象のほうがよっぽど怖い。本作について途中から「こいつは外したかな」と思ったのだけど、きちんとスーパーナチュラルに落ち着いてくれて、心のうちで快哉を叫んだものだ。やっぱりホラーは超自然現象をこそ題材にとらないと。
 人外の存在については、子どもの落書きにそれらしき存在が示される。この落書きが誰の手になるものかということとともに、Mr.ブギーなるその存在の正体は謎である。それぞれの殺人映像に一瞬、佇む姿を見せるが、本当に一瞬のことなので身元を明かすような情報は見出すことができない。
 エリソンは直接にMr.ブギーを特定するに足る情報を掘り起こすことはやめて、それぞれの事件に共通する点を挙げる。たとえば、事件現場に残る印。たとえば、惨殺された家族のうち、ひとりの子どもが失踪している点。まだまだ他にも共通点はありそうだ。
 ここで気付くのは、子取り鬼ことブギーマンだ。子どもを攫ってゆくという邪悪な存在。
 そう。「Mr.ブギー」。彼奴は傍らに立っているのだ、既に。狙いもわかった。オズワルト家の子どもだ。問題は、それがトレヴァーかアシュリーのどちらなのか、ということ。
 時にクローゼットの中に隠れるというブギーマン。自宅は安全でないことが明らかとなった。しかし、子取り鬼の恐怖を実際のものと感じてないエリソンにとって、自宅で頻発する怪異は、それでも気の迷いとして自分を納得させるしかない。彼の目に映るのは、やがて遠くない将来につかむはずの栄光である。目に見えない悪鬼を理由に諦められるほど、自分の夢は安くない。
 成功への切なる願いや家族への想いは、エリソンを追い詰めるプレッシャーへと変じ、仕事に没頭するほどに彼を苛む。
 エリソンが超現実をありのままに受け止められずにいたため、事態は悪化の一途を辿る。
 夜毎、ひとりでに上映をはじめる映写機。家の中で妙な気配を感じる。この手で焼却したはずの映写機とフィルムが復活し、それらを用いての上映会は観客が失踪した子どもたち。肉体を喪い、魂の穢された少年少女が人差し指を口に当てて、上映中の雑音を禁じる。「今、ちょうど面白いところだから」とばかりに。
 邪神ブグールは娯楽にて子どもを魅了する。シューベルトの「魔王」を思わせる設定に悲劇の予感はいや増すばかり。それでも一縷の望みを抱いて。
 自分がブグールの罠にまんまと嵌まったことに気付いて、ようやくエリソンは我欲を捨てる。自分にとっての財産は、作家としての成功ではない。家族だ。幸せな生活こそ得難い財産であり、自分はそれを既に手にしているではないか。むしろ、危うく手放すところだ。
 さあ、逃げよう。町を出よう。これからは真っ当な暮らしをするのだ。

 点と点を結んで線となす。これにて条件は揃った。儀式が執り行われる。

 引っ越した先に見付けたのは、映写機と数巻のフィルム。このたびはこれらに加えて、「未公開フィルム」も用意されていて。ここにきて編集技術習得の伏線が活きる。
 完全版のスナッフ映像には、それぞれの殺人事件の犯人の姿がとらえられていた。ブグールに、邪神がプロデュースする作品に、心底から魅入られた者たちが浮かべる会心の笑顔。
 それはオズワルト家の子どもの顔にも広がって。

 さあ、撮影開始だ!

 上映開始後、だんだんと、そして途中からずっと強いられていた緊張。 本作のカタストロフは想像の範囲内であったけれど、そろだけに終息することの安心を得られた。
 こんなことはなかなか体験できない。断っておくけど、本作のラストを尻切れトンボと評するわけではない。「終わってくれてありがとう!」という気持ちになったのだ。
 いやあ、凄い。本当に凄い映画だった。大満足だ!
 今年は、「キャビン」といいこの「フッテージ」といい、頗るつきに面白くて怖いホラー映画と出会えて幸せだなあ。どちらも映画に対するメタ視点があって、このシンクロニシティがグッとくる。「キャビン」も「フッテージ」も絶対に手元に置いておきたい作品だ。Blu-rayソフトが発売されたなら、現時点で購入決定である。

追記
 本作について誤認していることがあり、それに基づいて述べているところがこの記事にありましたので、これを改めました。観ながら違和感を覚えた点がそうだったのだけれど、正しく認識してみると納得できるしエリソンの妄執も説得力を増すというもの。
 怪我の功名で、脚本が練られていることを再確認した。
 イヤァ、参ったね。本当にお恥ずかしい。本作の観賞中でさえ上げなかった悲鳴が、思わず知らず口から迸っちゃうね。キャーッ!

満腹乞食 | HOME | ティファニーで酒宴を

Comments:0

Comment Form

Trackbacks:0

TrackBack URL for this entry
http://mescalinedrive.com/mt-tb.cgi/188
Listed below are links to weblogs that reference
上映中はお静かに from MESCALINE DRIVE

Home > 上映中はお静かに

Feeds
blogram投票ボタン フィードメーター - MESCALINE DRIVE 人気ブログランキングへ
Message
Visitor

Return to page top