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空腹のニコラス・ケイジは?

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 カトリーナの名で知られるハリケーンの傷痕が、まだそこかしこに残るニューオーリンズ。高校で国語を教えるウィル・ジェラードは、楽団員の妻と暮らしている。公私にわたって充実した日々を送るウィルだが、好事魔多し。ウィルが同僚で友人のジミーとチェスに興じるさなか、彼の愛妻は稽古帰りに暴漢に襲われてしまう。
 愛する妻がレイプされたことにうちひしがれるウィルの前に、ひとりの男が現れる。サイモンと名乗る男は、ウィルにひとつの提案をする。自分たちは、世間に蔓延る悪に制裁を加え、社会に正義を実現する組織だ。そして、ローラを暴行した犯人を知っている。その男は性犯罪の前科者だ。ウィルが望むなら、その罪に相応しい報いを咎人に与えよう。
 この申し出は突然のことで、しかも明らかに合法ではない。あまりに怪しすぎて、話に乗るのは躊躇われる。一旦はサイモンの申し出を断るウィルだが、妻を想えばこそ復讐心がたぎる。
 ウィルは決断し、その夜のうちにレイプ犯は殺された。組織の手が下ったことを示す写真と、レイプ犯がローラから奪ったネックレスをウィルは受け取る。サイモンが話した内容は嘘ではなかった。社会正義を自ら実現する組織があるというのは本当のことなのだ。
 こうなると気がかりなのは、申し出があった際にサイモンが提示した条件。ちょっとした協力をお願いするということだが、それはどのような内容のものだろうか?
 半年後、サイモンから連絡が。仕方なく指示通りに動くウィルに、サイモンがなおも要求するのは、「ある男を殺せ」。殺人の指示だった。

 主演はニコラス・ケイジ。本作を語るのに、「ニコラス・ケイジ主演作品」の他に説明は要らないだろう。ここ数年、彼の主演作品を観るに、それらは決まって主人公が逃げるか追うかしている。すべてのニコラス・ケイジ主演作品を追っているわけではないので、手に汗握る追跡劇とは無縁の作品に彼が出ているのかもしれないけれど、まずもってそんなことは有り得まい。
 ニコラス・ケイジは、彼自身がB級映画に己の居場所を求めている。硬派な文芸作品なんか見向きもしない。そんなニコラス・ケイジには、彼自身が演じるのを望んで得られない役柄がある。ぴっちりタイツのモッコリ超人、「鋼鉄の男」ことスーパーマンである。しかし、頭髪に危機的状況を招いている馬面中年男が、アメリカ合衆国の国民的英雄を演じられるとは思えない。現に、今夏公開のザック・スナイダー監督作品「マン・オブ・スティール」では、ニコラス・ケイジは出演してないようだ。
 その代償行為ではあるまいが、ニコラス・ケイジが出演するのは波乱万丈の筋書きを持つ英雄譚だ。本作の主人公は、超人的な特殊能力を持つわけでも修羅場をくぐり抜けてきた経歴を持つわけでもない、ただの一般市民なのだが、状況が転がってゆくうちにいつものニコラス・ケイジに。
 それでも、本作の脚本は最低限のリアリティを損ねまいと頑張っている。一般市民が銃を手にしていきなり精密射撃をやってのけるでもなく、スタントマン顔負けのカーチェイスを披露するでもない。本作でニコラス・ケイジが演じるのは、国語教師にしては体格がよいけれど、とりたてて格闘技を修めているわけでもない中年男。精一杯やってできる範囲内の事柄しか、彼にやらせていないのは評価できる。

 今回の記事を、本作は「ニコラス・ケイジ主演作品」とのみ記して終わらせてしまうのは、さすがに無愛想。他に書くことがあるとするなら、それは「ヴィジランティズムとその暴走」である。

「マン・オブ・スティール」公式サイト  アメリカンコミックのヒーローは、己の行為が正義から出たものかヴィジランティズムの表れなのかを悩む。自らの力は正義のために使うべきなのに、自分は正義を標榜しておいて実はヴィジランティズムの道を邁進しているのではないか。この葛藤が作品のテーマになるくらいだ。
 そこで「正義とは?」「ヴィジランティズムとは何か?」といった問いかけが何度も為される。
 ヴィジランティズムは「自警主義」と翻訳される。これは自衛権と関連している。アメリカ合衆国において銃所持の是非について議論が交わされる際、賛成派が持ち出すのが、銃の所持は合衆国憲法に保証された人民の権利という点だ。これは独立戦争時、市民は民兵として銃を手に敵兵と戦うことを求められたのが由来だという。
 銃の所持は、自分たちの国家を銃の力でもって勝ち取った実績から、それが認められた。そして次に認められたのは、勝ち取ったものを守るための権利だ。つまり、自衛の権利である。
 国土拡大のために開拓は正義であると奨励した手前、治安の行き届かない地域では「自分の身は自分で守る」のお墨付きを、政府は市民に与えなければならなかった。かくしてアメリカ合衆国政府は市民における銃の所持を認め、自衛権を認めた。ここにアメリカにおける自警主義の生まれる土壌が完成した。
 銃の所持が認められて、自衛のための権利も認められた。これらから、自衛に銃を用いるのは合理的な帰結となる。自分の生命財産を守るためならば、銃をもってして反撃するのが当然、ということになる。
 単純且つ乱暴に纏めたが、アメリカの自警主義の形成は次のような事情だろう。つまり、銃の所持と自衛権によって自ら戦う用意と意思とが揃って認められたこと、そして国土拡大時の治安維持の不徹底。これらが自警主義の形成に大きく影響を及ぼしたものと考えられる。
 開拓時代、大変な苦労をして辿り着き、荒れ地を開墾してようやく一家が暮らしてゆけるになったと思ったら、流れ者に奪われてしまった。銃で脅され、暴力に訴えられ、為す術もない。そんなことでは誰も開拓に夢を持たなくなる。政府としては市民を開拓の最前線に送り込むために、彼らを安心させなければならない。だから、「襲撃者? 他人様の生命財産を脅かそうなんて奴らなんか構わねぇ、ブッ殺しちまえ!」と反撃を認めざるを得なかった。
 自分の身は自分で守る。理屈としてはこのうえなくシンプルだ。
 人が集えばそこに社会が生まれ、自治体が形成される。その大小はともかく、自治体の維持と発展にはルールが必要だ。そして、自治体の事情はそれぞれに異なり、そうなるとルールはおのずとそれぞれの事情に沿ったかたちになるのは必定。
 明文化されたルールの法律と、それぞれの社会でのみ通用する不文律、それを守らなければ相応の罰が課せられる点で二つとも同じである。正義もヴィジランティズムもルールを守らなければならない。

amazon:[大型本] アート&メイキング・オブ・ダークナイト・トリロジー  法が正しく機能しないのなら、法の果たすべき役割を自ら演じる。遵法意識でスポイルされない「正義」を、この手できっと成し遂げる。
 このような認識を持つ者が現れるのもわからなくはない。
 正義を望む気持ちは理解できる。復讐心も共感できる。ただし、それは正義ではないこともよくわかっている。正義は法に則ってはじめて正義たりうる。精神も手段も正しくなければ大義は成らない。自ら定めたルールに従うのは、ヴィジランティズムでしかない。
 だから、バットマンは正義ではなく、あくまで「無法の自警市民」なのだ。バットマンことブルース・ウェインがハービー・デントに期待したのは、ハービー・デントが法律の枠内で物事を進める「正義」であったから。志向するところも方法論も正しくあったからだ。正義が為されるのなら自分の役割は必要ない、とバットマンを辞めるつもりでさえいた。結局、それは叶わなかったが。
 重要なのは、ヴィジランティズムであってもそこには自ら定めたるルールがあり、そのルールには従う、ということ。正義もヴィジランティズムもルールに忠実という点で違いはない。そのルールが何によって定められたかが違うのだ。
 ヴィジランティズムが悪いのではない。それを「正義」と呼んで力を行使することに問題があるのだ。「正義」の美名は、志ある人の心を歪めてしまう。
 ニューオーリンズはカトリーナの襲来によって、町がそもそも抱えていた歪みと人々の怒りを浮き彫りにした。政府が果たし得ない正義に絶望した者も多かったことだろう。そうした下地があっての本作だ。
「空腹の兎は跳ぶ」
 正義の見えない世界を生きるのに、それが必要と思われるなら兎だろうと何だろうと頼ればよい。折り合いをつけるのを潔しとせず、徹底的に抗うのも良いだろう。ただし、「それ」は「正義」ではない。
 組織が受け持つのは「復讐」のアウトソーシング。復讐心を燃え上がらせる個人に接触し、その思いを引き受けると持ちかける。直接に復讐を果たしたなら罪だが、法制度の定めるままに任せられない気持ちに嘘は吐けない。被害者やその家族・遺族は復讐を代行してもらい、次に他人の復讐を引き受ける。自分が果たすはずだった復讐を、どこの誰だかわからぬ相手にぶつける。
 これは「代理殺人」であるとともに、その殺人によって思いを果たした者もいずれは誰かの復讐のための殺人を犯さなければならないことから、一種の「交換殺人」といえる。しかしその人間関係は、通常の交換殺人にあるような閉じた円還に描かれるようなものではない。あたかも螺旋を描くように、どこまでも繋がってゆく。終わりがない。
 この螺旋を断ち切ろうとしたのがアラン・マーシュであり、ウィル・ジェラードである。

amazon:[DVD] あの頃映画「復讐するは我にあり」  新聞記者のアランは外部から、組織による復讐の恩恵を享受したウィルは半歩踏み入った内部から、それぞれに組織に対して働きかけた。
 組織の全貌を暴いて、これを告発するつもりだった新聞記者。冤罪を晴らすべく真相をつかまんとした国語教師。ともに言葉を扱う職種の二人が、ペンではなく剣の暴力に対峙する。
 ペン、つまり法律が、社会においてその効力を信用されてない。それは、アランとウィルの同僚や上司、法の番人たる警察官に組織の構成員がいるという描写によって明示される。
 ペンが剣に屈する社会。ここにおいて剣がその威力を恃んで暴走する。その象徴がサイモンことユージン・クックだ。
 アメリカ合衆国においてヴィジランティズムは否定できない。しかし、ヴィジランティズムが抱える不安要素も無視できない。そのジレンマを解消すべく用意されたのがサイモンだ。彼は、ヴィジランティズムの持つ危うさを悪徳へと織り成した衣を纏うことで、悪党の配役を勝ち得た。
 サイモンが犯した罪は、組織が自ら定めたるルールから逸脱するというものだ。正義もヴィジランティズムもルールを守る点では同じであり、違いは従うべきルールの設定者だ。これは先に述べた。ヴィジランティズムは正義ではないだけに、法律に従う以上に自分たちのルールに忠実であるべきだ。サイモンはこれを破った。組織は掲げていた「正義」を汚された(決して正義ではないのだけれど)。
 だから、サイモンは死ななければならなかったし、組織から見捨てられなければならなかった。その処理によって組織は、ヴィジランティズムそのものが自浄作用を有することを示したのだ。
 サイモンは組織にとって獅子身中の虫であり、この寄生虫は絶対に滅ぶ必要があった。

 サイモンは死んだ。ウィルは冤罪を晴らすことができた。しかし組織は揺らぐことなく健在だ。一抹の割り切れなさは残るけれど、そこに暴力と隣り合わせに生きるアメリカ合衆国社会の現実がある。
 銃の規制よりもヴィジランティズムをどう捉えてゆくかが、銃のない社会の実現を促すのではないだろうか。とまあ、真面目なコトを述べてはいるが、所詮は素人の浅知恵である。それに、アメリカはもう変わらないだろう。ニコラス・ケイジがそうであるように。

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