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四月馬鹿と鋏は

amazon:[文庫] 嘘をもうひとつだけ (講談社文庫)  4月1日はエイプリルフールということで、インターネット界隈を冗句コンテンツが賑わす一日となるのが、近年の習いである。個人だけでなく様々な組織、特に営利目的のそれである企業までもが、たとえそれが営業活動の一環だとしても、遊び心を存分に発揮する。
 かくして、インターネット上に荒唐無稽なコンテンツが横溢するのが、4月1日だ。つまり明日である。
 冗談の無礼講みたいな一日を、年に一度のお祭り騒ぎを、ただ横目に眺めてやり過ごすのは、いかにも勿体ない。ひとつ、破天荒な嘘でも吐いてやろうではないか。とまあ、こんなことを思うのだが、これが実に難しい。生来が正直者なので、いざ嘘を吐こうにもどうにも勝手がわからないのだ。嘘を吐くのも相応の才能とそれなりの経験が要るのだな、と実感することしきり。

 嘘を吐くのが下手なのは、これははっきりいって両親の教育のたまものである。さながら不動明王のように、青黒い瞋恚にその身を焦がす父であり母であった。無駄口すらも許されない家庭で嘘なんぞを吐いた日には、舌を切られてしまう。日曜大工が趣味の父は愛用のニッパーで、洋裁が趣味の母は裁ち鋏で、私の舌をバチンバチンと切るのである。閻魔様のお手を煩わせるまでもない、という理屈だ。
 今でこそ舌ピアスだのスプリットタンだのといった身体改造が一般にも知られるようになったが、私が幼い頃はこれらは身体における欠損にすぎなかった。
 舌を切られたことによる弊害で発音が不明瞭となり、それに対する恥ずかしさと、嘘を吐くことの罰への恐怖から、私は極端に無口な子であった。まわりからは手のかからない子どもと思われていただろうか、それとも薄気味悪いガキと見なされていただろうか。今にして思えば、口を真一文字に引き結んで全く喋らない幼児というのは、かなり不気味な存在である。
 あの頃、ズタズタに切り刻まれて原形をとどめない舌そのものを恥じて、誰にも気付かれないように口をとじていたのだが、子どもの考えることは隙だらけである。ある日、ささいなことから舌の秘密がクラスメイトに知られてしまった。
 囃したてる級友たちに説明しようとするも、ふだん全く喋らないものだから話すという行為自体に慣れておらず、ただでさえ非論理的存在である悪ガキどもを前にして、幼い私は完全にパニックに陥ってしまった。とにかく説明をしなければ、との思いばかりが先走って、ついには嘘を吐いてしまう。
 あのとき、なぜこんなことを口走ったのか、今となってもわからない。涙ぐみすらしながら必死になって雀に切られた雀にやられたと強弁したのは、あれは両親を庇ったのだろうか。うまく回らぬ舌で雀スズメと発するも、シュジュメだかクトゥグアだか判然としない。血の混じる唾を飛ばしながら邪神でも召還しそうな勢いで喋る無口クンを目の当たりにして、それまで囃したてていた悪ガキどもも唖然とするほかはなかった。
 この騒ぎはすぐに教員の知るところとなり、同時に私の口内の修羅場が周知の事実となった。舌切り雀の嘘も。
 その日から、両親とは会っていない。私は施設に送られ、そこで育った。まわりの子どもも大人も腫れ物に触れるかの如き扱いでしか接してはこなかったが、それが私にとっては却って安心感を与えてくれた。もう切られることはないのだ。
 そして現在。
 春。花粉症が猛威を振るうこの季節。私は常にマスクをつけるのだが、この時期はマスクをしていても不審を呼ばないのでとても過ごしやすい。
 相変わらず口数は極端に少ないが、奇妙な発音とそれに注がれる好奇心たっぷりの視線とに折り合いをつけて生きている。この心境に至るまでは様々な出来事と葛藤があったが、今は心穏やかに日々を送っている。父と母への思いは未だ複雑なものがあるけれど、この頃は悪夢に飛び起きることもなくなって、だからというわけでもないが、だんだんと許してゆけるような気がしていた。
 年度末もここに極まれり。三月も晦日の日曜日、この日まで休日出勤しなければならない我が身を嘆く。その通勤途中、人通りのない裏道を急いでいると、ひと組の老夫婦に声をかけられた。見覚えのない顔に関わり合いになることの億劫が意識にのぼったが、二人の優しそうな眼差しについ反応してしまった。
 どことなくチグハグな印象を受ける老夫婦は、二人揃って花粉症なのだろう。大きなマスクをかけていて、それが違和感の原因なのかもしれない。マスクの影響は外見にのみ及ぼしているのではなくて、マスク越しのくぐもった声では言葉が聞き取れない。思わず近寄ったのが迂闊だった。いきなり両の腕をつかまれてしまった。老人とは思えぬ力の強さにたじろぐ。すると、マスクの奥から聞き覚えのある声が。
「やあ、随分と久し振りじゃないかヒデヲ!」父の声だ。
「お前のおかげで逃げ回る人生を送ることになったわ!」母だ。
 父も母もこのような顔ではなかった。二人は顔を変えて、おそらくは名前も変えたのだろう。あれからずっと嘘の人生を送ってきたに違いない二人が、嘘を強いられたことの恨みを抱いて現れたのだ!
 だが恐くない。嘘を吐いてきたのは二人である。児童虐待の犯罪者が、世を偽ってきたのだ。舌を抜かれる嘘吐きは二人のほうである。
 常に携帯している糸切り鋏を鞄から取り出そうにも、両腕の自由はきかない。私は両親を睨みつけた。「覚悟しろ! 嘘吐きめ!」
 その言葉に意外な反応があった。ポカンとした数秒の後に、二人は笑いだした。
「何を馬鹿なことを。嘘吐きはオマエだろうに」
「雀がオマエの舌を切ったって嘘を吐いたそうだね」
 目の前が暗くなった。
 ああ、父と母は、私が最後に吐いた嘘を叱るために現れたのだ!
 不意に両腕をつかんでいた馬鹿力が感じられなくなり、自由を実感する間もなく今度は羽交い締めにされる。父だ。視界に入るその右手にはニッパーが握られている。母は提げていたバッグから裁ち鋏を取り出す。どちらの刃先も見事に研がれていて、切れ味の良さは疑うべくもない。
 どちらの声かはわからないが、男とも女ともつかない奇妙な声が頭のまわりをワンワンとめぐる。そんな声なのに言葉の意味はちゃんと取れることの不思議を頭の隅で感じながら、私は抗うこともせずにされるがままになっている。
 声はいう。
「シタには切る余地はないようだが、まだシタがあるな」
 ベルトがゆるめられ、下着ごと下げられる。弛緩した性器を春の風がなでる。下腹部を両親の前にさらし、気恥ずかしさとともにどこかしら誇らしくもあって。
 そして気付いた。切られるという「シタ」が、体のどの部分なのかということを。

 バチン!
 バチン!

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 いやはや、どうにも嘘は苦手だ。私は嘘を吐くということの才能に欠けているのだなあ。否、そもそも素質がない。向いてない。及第点にはとてもじゃないけど届かない。完全に赤点ですよ。
 この調子では、明日も嘘ひとつ吐けずに終わるだろう。それはそれで仕方ないか。
 いやいやいや、今から白旗を上げてどうする。諦めたらそこで試合終了と白髪鬼も述べているではないか。
 まだ慌てるような時間じゃない。本番は明日である。4月1日が終わるその瞬間までに、とびきりの嘘をひねり出してやる!

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