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ゲーム攻略のバイブル

amazon:[DVD] ファニーゲーム  ミヒャエル・ハネケの問題作、「ファニーゲーム」を観た。
 唐突にそれは現れて、ゲームの開始を宣言した。巻き込まれた者は否応なく参加させられ、そして生命を懸けさせられる。想起したのは「SAW」シリーズのジグソウ。彼もまた日常への闖入者だ。そして、観念の破壊と再構築を齎す者だ。ただし、パウルとペーターが始めるゲームとジグソウによるゲームとでは、両者に大きな差異がある。
 ジグソウには彼なりの理念があり、彼のゲームにはその理念が反映されている。ゲームそれ自体を自らの業績と捉えるジグソウは、綿密な計画を立ててゲーム会場を用意する。ジグソウのゲームの参加者は、当人の背負う罪とゲーム内容とが分かち難く結び付いている。それ故に、ゲーム立案時に彼らの参加はゲームマスターによって既に決められている。ジグソウにとってゲームとその参加者とは、これは不可分に結び付いているものなのである。
 ジグソウのゲームは決まって凄惨な内容となるが、そこには厳然たるルールが存在し、まして勝利へと到る道筋があったことを最後には提示される。勝利を得られたことが示されるものだから、これによってゲームが公正であることを認めざるを得ない。ジグソウのゲームに参加させられることが理不尽であることは尤も至極ではあるものの、ゲームそのものは理の産物に違いない。
 ジグソウが自らの生命を削ってゲームの立案と実行に邁進したのとは異なり、パウルとペーターはその場の思いつきでゲーム内容を変える。この点でジグソウとは大違いだ。ジグソウは、一旦ゲームが始まったならゲームマスターといえどもルールに従うことを潔しとしていた。ゲームの勝利条件を中途で変えることはなかった。そのゲームでたとえ自らの命が断たれたとしても、彼はこれを納得して受け入れたことだろう。しかし、パウルは違う。アナのペーターへの反撃を無かったことにしてしまう。しかも、強引且つバカバカしい方法で。
 パウルとペーターのゲームは公正ではない。彼らは一方の参加者でありながらレフェリーでもあり、なにより彼ら自身がゲームマスターなのだ。これが公正であるはずもない。

 眼下を走る車はボートを牽引している。真上から見下ろすこの視点は人間のものではない。だから、つまりそういうこと。冒頭から伏線は張られていたのだ。
 ショーバー家を襲った災厄は二人の男の姿をとっているが、死すら凌駕する彼らをただの通り魔と呼ぶのは躊躇われる。身につけている服装は白のみ。人とは相容れぬ感性。暴力のさなかにあって、あくまでも無邪気。ショルシが隣家に逃れた際、湖の浅瀬を通ったがために彼は水に濡れたけれど、後を追ったパウルはほんの少しも濡れなかった。パウルがショルシを連れ帰ったときも同じだ。このことはペーターがショーバー家を訪れた際にアナが不審に思ったことに繋がる。
 パウルとペーターは何者だ?

 パウルとペーターが去った後、息子を喪ったゲオルグが嗚咽をもらす。このときの彼の気持ちを思うと、胸が痛い。自分たちが築いてきた家庭が理不尽な暴力に見舞われた。尊厳は踏みにじられ、息子を喪い、それでもまだすべてを把握できない。何もわからない。いったい何が起きたというのか。
 幼子が殺害されて、それでも納得できるほどの恨みを自分が買っていたというのなら、それを受け入れることはできないまでも、物事として理解できなくはない。居直り強盗や禁断症状のあらわれた薬物中毒者が相手だったというのなら、これも理解の範疇だ。本来、あってはならないことだけれど、この惨劇を理解可能な物語に投影して自分のなかで折り合いをつけられる。これはアナも同じだろう。しかし実際に起きた事柄を思い返しても、そこに因果を結ぶ理が見えてこない。
 何が原因でこんな目に遭ったのか、本当にわからない。あの二人の訪問には自然災害のような唐突さと理不尽さがあって、敢えて形容するなら猛烈な嵐に襲われたと表すほかはない。

amazon:小型聖書 - 新共同訳  白い訪問者、パウルとペーターは常に手袋をしている。
 最初は指紋を残さないようにするためのものかと思ったが、自分の腹におさめる食品すら手袋のままつかむのを見て、周到すぎると呆れたものだ。ところが、最後になって私は考え違いをしていたことに気付いた。
 パウルとペーターはアナと一緒にボートに乗る。その後、汚れた手袋を洗う際にとった行動が理に適わない。人間ならば手袋をとってこれを洗う。しかし、この白い青年は手袋をしたまま手を湖につけて洗った。まさに手洗いをするように洗ったのだ。そこには何の躊躇もなかった。皮膚に濡れた手袋が張り付く感触は、彼らが神経質の潔癖症であるならば絶対に好むところではあるまい。
 ならばなぜ手袋を外さないのか?
 そうなのだ。そういうことなのだ。気付いてみれば、これほどあからさまなこともない。何もかもが当然のこととして捉えられる。まさに「かくあれかし」である。
 ベーリンガーの家に逃れたショルシが暗闇に隠れていると、彼の後を追うように部屋の灯が点く。パウルは、旧い言葉にあるように、まず最初に光を齎したのだ。
 作中、パウルはたびたびカメラ目線で私たちに語りかける。これは、ゲームに観客は付き物との考えを踏まえて、敢えてそんな態度をとっているものだと私は思っていた。悪ふざけでもってゲオルグたちの苛立ちを煽る目的だと。パウルとペーターの正体がわかってみれば、これは大きな間違いであったと認めなければならない。
 私たちが彼らを観ていることなんか比較にならないくらいに彼らは私たちを視ているのだ。それは今もなお続いている。
 パウルもペーターも人々に娯楽を提供するのに吝かではない。生来のショーマン気質だ。音が似ているからといってシャーマンではない。断じてあり得ない。彼らが神に捧げる祈りの文句を知らないのは当然だ。彼らは祈る必要がない。否、必要とか不要とかいう問題ではない。主体と客体の違いだ。
 傍若無人で、気紛れで、そのくせひとたび無礼を働かれたと感じたなら黙っていられない。自然科学の法則を平気で捩じ曲げ、人々に対して理不尽なまでの暴力を振るい、時には大災害をひきおこす。この厄介な個性の持ち主については、世界で最も読まれている書物に詳しい。
 その書物だが、ここではその名を明かすのは控えておく。そうはいっても、本文中にヒントをちりばめておいた。そればかりではない。この記事の表題を見よ。これを読めばおのずとわかるだろう。

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