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食い倒れる野良犬

amazon:[コミック] 少女ファイト(5) (イブニングKCDX)  日本橋ヨヲコ『少女ファイト』5巻を読んだ。
 一ヶ月の停学とそれを利用しての合宿が終わり、それぞれに成長を見せる黒曜谷高等学校女子バレーボール部。しかし池袋ガールズベットバレーの余波は尚も続いて、関東近郊の大会は出場自粛を強いられる。練習は勿論だがそれよりも試合において得ることの多い彼女たちにとって、試合にを出られないことは停滞にも等しい。地元で試合ができないならば遠征をすればよい。ということで黒曜谷ストレイドッグス、大阪遠征と相成った。
 遠征先が大阪と聞いて、伊丹志乃の顔色が変わる。祖父が暴力団組長であるばかりに何らの根拠もなく八百長疑惑を持たれ、自分の実力を正当に評価されなかった、あの大阪!
 大阪遠征の前にバレーボール部員を見舞う試練。それは期末試験。文武両道を謳う陣内笛子監督の意向により、試験で赤点をとった者は試合に出られない。バレーボールにのみ打ち込めばそれでよしとされるものとばかり思い込んでいた一年生部員だが、そうは問屋がおろさない。

amazon:[コミック] 少女ファイト(5) 特装版 (プレミアムKC)  巻頭を飾るFight.29「アタックNo.2nd」は、黒曜谷高校女子バレーボール部の栄光を彩った世代のOG会の模様が描かれる。
 この世代の陣内笛子と由良木政子は、今や監督だのコーチだのを務め、指導者として現役高校生に仰ぎ見られてはいるが、世代間の年齢差は十と離れてない。練が五年生に上がる春休みに真理は亡くなった。このとき彼女は全国高等学校バレーボール選抜優勝大会に出場している。そして、黒曜谷高校女子バレーボール部は二年生までが春高に出られる。これらのことから、真理は高校二年生修了後の春休みに亡くなったことがわかる。また、春高優勝メンバーが当時一年生か二年生であったこともおのずと知れる。
 現在、練は高校一年生。あれから五年経った。笛子や政子もまた五年の時間を過ごした。こうなると簡単な足し算だ。十六歳か十七歳だった少女に五年の歳月を加えると、二十一、二歳になる。
 愕然となる。寿司屋のカウンターで管を巻く顔ぶれを眺めるに、彼女らが二十代前半だとは到底信じられない。成人式を済ませたのがたかだか一、二年前だということを疑いたくなるくらい、彼女たちには貫禄がそなわっている。名のある戦場を渡り歩いた傭兵の如き貫禄が。どんな経験を積み重ねてきたのだろうか。
 このOG会で語られたことのひとつに、「大石真理とはどんな人物だったのか?」ということがある。
 中学生で全日本ユースに選ばれたことからも、真理がその世代において高いレベルのバレーボール選手だったことがわかる。真理が入学するというので、彼女目当てに黒曜谷高校に進んだ者もひとりや二人ではない。真理自身はそのキャリアに驕るような人間ではなく、むしろ和を重んじてチーム内の調整役を買って出るところがあった。そういったことが嫌味に感じられない空気を彼女は纏っていた。これらのことはバレーボール選手としての評価軸で語られるのではなく、大石真理のそもそもの人間性に根ざしているものと評価すべきだ。真理は、容色・技能・人格に優れたまさに素敵魔人だった。
 それだけに彼女を喪ったことの衝撃は計り知れない。現在に至るまでその死に対してまだ心の整理のつかない者がいる。二十代前半だというのに同年代の同性がするようには着飾らず、一年中を喪服で通す。そんな生き方をする者が。
 ここに呪縛がある。真理本人は死後に呪ったり祟ったりする生き方をしていたわけでも、その死に様がとりわけ凄愴だったわけでもない。とにかく大石真理の存在が大きすぎた。それだけに喪失感も大きくて。だから、いつまで経っても引きずってしまう。
 大石真理の呪縛からの解放。これが本作のテーマのひとつであることは疑いない。つまりは過去に引きずられるのではなく、過去から繋がる今を明日に向かって生きるということ。あまりに唐突で心の用意ができなかった喪失を、五年経った今になっても引きずっている者には、振り返ってばかりいては前に進めないということを実感するときが来る。
 真理の呪縛を受けているのは存外に少なくないようだが、その誰もが呪縛からいずれ解き放たれるだろうか?

 大石真理が物事をはかる尺度となっている。そんな者がいるのではないだろうか?
 その者にとって大石真理は過去の存在ではない。憧れでなく目標でなく、現在を生きるうえで常に自分とともにある存在。これは過去を引きずっているということとは異なる。何事も「大石真理」を物差しにして決めているのだ。主観においては、今を大石真理とともに生きているということになる。これは呪縛として根深いものがある。
 練や笛子が真理を思うとき、彼女たちは過去を振り返る。時には「真理ならこんなときどうするだろう、どう考えるだろうか」と故人に指標を求めるが、これはむしろ自分の立脚点を確認する意味合いが強い。意思が揺らぎそうなときに真理を思って自分を取り戻す。そこにあるのは紛れもなく"自分"だ。
 そうではなく、自分に「大石真理」を上書きしているような、そんな生き方をしている者はいるだろうか?

 現状に苦しんだり充足感を得られなかったりで過去に思いを馳せる。思い出にひたって自分ひとりを慰めるぶんには構わないが、前へ進もうとする友人にかつての姿のままでいることを望むのは間違いだ。まして心身ともに成長する年代にあっては尚更だ。
 かつて唯隆子は「狂犬」と呼ばれていた大石練にシンパシーを感じていた。生きるためにバレーボールを選んだ同志とも戦友とも思っていた。自分とともに闘える唯一無二の存在と見做していた。それが久しぶりに再会した練は変わってしまっていた。あの頃のギラギラした存在ではなくなっている。どうしたことだ?
 人は成長する。人が前に進もうとするのを傍から見て否定するのはただのエゴだ。式島未散は当たり前のことを云ったにすぎないのだが、それだけにその言葉は隆子の胸を貫く。成長がもしも退化を招くのだとしたら、それは成長といえるのか? よしんば練の変化が成長だとするなら、以前と変わらずにいる自分は成長してないというのか? いずれにせよ、自分は置いてきぼりを食ったのだ。
 隆子の涙は、待ち焦がれていた練との再会にもかかわらず身に迫る孤独から溢れたものだ。二人の再会はこんなことになるはずではなかった。
 隆子は考えを進める。練の変化には原因があるはず。それを排除すればきっと元に戻るに違いない。私は諦めない。
 練を変えた要因のひとつ、小田切学がどんな人物か探りを入れた隆子は、思いもしなかった反撃を受ける。現状がどうであれ大抵の事柄を受け入れるだけの心構えが、学にはある。理想と現実に乖離があれば、理想を叶えようとしつつも現実に寄り添う。それが小田切学だ。横綱相撲のような懐の大きさは、隆子の想像にはなかった人物像だ。
 隆子とのやりとりを見て、ミチルは改めて学の強さを実感する。

amazon:[ムック] るるぶ大阪'13 (国内シリーズ)  充実していた日々を懐かしむ者がいて、過去を振り返るたびに拭い去りたい様々な出来事に苛まれる者がいる。
 自分とは関係のないことで評価されてしまう。それは不当で実情とは乖離していて、でも事実であるかのように広まっていて。新天地で心機一転というのは間違いではない。ただしそれは周りに求めるのではなくて、自分自身が為すべきことだ。
 他人の気持ちを忖度したところで確かなところはわからない。自分の思い通りに他人を操ったり動かしたりするのも難しい。ならば、どうにかできる自分を変えよう。
 過去があって今がある。その先に未来が待っている。この当たり前のことに気付かないのは、見ている先にしか意識を向けていないから。つまりはまだ幼いということだ。視野の広さは大人になった証。自分の思いに素直になることも。
 己の過去の言動に悔いを残す。自らの愚行を挽回する機会も与えられなくて、そしてそれを当たり前と受け止める。やり直しがきくなんてそんな甘い考えは通用しない。 勝負事でも何でも一回こっきりのチャンスを逃さないこと。次の機会はないものと思え。だから巡ってきたチャンスに食らいつかないのは、見ていてどうにももどかしい悔しい。意地を張ってせっかくのチャンスをふいにするなんて、本当に馬鹿げている。
 志乃の人格形成に大きく影響を及ぼした家庭環境も世評も一般の少女が抱えるには大きすぎるだろう。その点は理解できる。けれど、そこに伊丹志乃の本質がないことは自分が一番よく知っているし、そんなことで振り回されるのがとてもつまらないことも身をもって知り抜いているはず。それなのに最後まで囚われてしまっていることの愚かしさ。
 我の強さと頑ななところは正しく導かれれば長所となり得る。ただし、意固地のままでは遠からず後悔することは目に見えている。志乃がこの時期に三國智之と親しく交流を持ったのはまさに天の配剤だ。彼もまた出自に縛られている。そして彼は三國財閥の後継者として見られること期待されていることを受け入れている。それはこれまでの日々で刷り込まれたものかもしれないが、どう見られようとどう思われようと結局は自分は自分でしかないのだ。
 他者からの評価によって人の本質が変わることはない。本質に変化が生じればそれに応じて評価も変わるだろうが、評価のために本質を曲げようとする必要はない。周りがどう思おうがどう云おうが関係ない。自分は自分なのだ。
 因縁のわだかまる地で新たな知見を得て、叱責され背中を押されて、伊丹志乃は自分に正直になることができた。チームは志乃を送り出すことで団結力を増した。志乃を送り出しておいて負けるわけにはゆかない。5巻における白眉、犬神鏡子のトスを受けての大石練のアタック、"鏡練砲"が炸裂する。このときの練はまさに獲物を仕留める猟犬そのものである。

 伊丹志乃と祖父との和解は成った。だからといって彼女に関する問題のすべてが解決したわけではない。志乃には理想とするバレーボール選手のあり方があり、それは現実とは相容れない。半ば叶わない望みとは知りつつも簡単に諦められない思いを志乃は抱いている。セッターとしてコートに立ちたい、正セッターとしてレギュラーの座をつかみたい。この思いは簡単には捨てられない。
 現状ではセッター候補は小田切学だ。初心者ながら理解度の高さは目を見張るものがあり、常に考えながら練習に取り組んでいるところに知性と創造性を感じられる。小田切学には伊丹志乃にはないしなやかな感性があり、窮地に陥っても周りが見えなくなるということは考えにくい。現時点では初心者であるが故に視野が狭くなることも少なくないが、ふだんの彼女には折れない芯の強さを感じる。
 また、学は身体的に恵まれている。これは志乃がどう頑張っても克服できないものだ。経験さえ積めば面白い選手になるだろうことは間違いない。今後が楽しみな逸材である。
 それだけにセッターというポジションにのみ限るなら、伊丹志乃の適性は小田切学には及ばない。志乃には彼女に相応しいポジションがある。チームのために志乃がそれを受け入れられるかが、黒曜谷ストレイドッグス躍進の鍵となるだろう。このチームにはまだ伸び代がある。

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