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うつし世は夢

「ねらわれた学園」公式サイト 「ねらわれた学園」を観た。
 来訪者は、ある春の日の未明に現れた。
 犬の散歩の途中、関ケンジは「ここが地球」との言葉を聞きつける。それが転校生、京極リョウイチとの出会いだった。
 少年と別れて散歩を続ける。海岸に出て砂浜を走っていると、サーフィンを楽しむ同級生と顔をあわせる。春河カホリ。彼女との甘い時間を過ごすために犬の散歩当番を早朝に切りかえたのだ。"甘い"というのはケンジの主観であり、カホリと話せるならケンジにとってたいていの状況は嬉しくも甘い時間となる。傍目には滑稽に映ったとしても。
 ケンジが次に会ったのは幼なじみ。隣に住む涼浦ナツキは、ケンジにとっては云わば天敵。否、天災。弱みを握られたら最後、どんな状況が出来するか火を見るより明らかだ。そしてケンジは迂闊にも彼女の前で粗相をさらしてしまう。
 これがその朝の出来事。このとき、事件は既に始まっていた。少年少女は変わるべくして変わる。

 本作は公開を控えている。内容を知りたくない向きも多いことだろう。ネタを割らずに本作の魅力を伝えられたならそれにこしたことはないのだけれど、生憎とそこまでの文章力を私は持たない。書きたいことを書こうとするとそれに付随して作品の核心にまで触れずにはいられない。不器用なものでスイマセン!
 というわけで、本作について事前に情報を仕入れたくないならば、猛烈な勢いで「戻る」をクリックですぞ。

amazon:[文庫] ねらわれた学園 (講談社文庫)  眉村卓の『ねらわれた学園』は、読者を少年少女とはっきり設定したジュブナイルである。戦後、SF作家が自分たちのジャンルの素晴らしさを広めようと、若く好奇心に満ちた読者に向けて作品を物した。江戸川乱歩や横溝正史ら探偵推理小説の書き手が子ども向けに夢と冒険の詰まった読み物を発表したのと、その意図はかわらない。SFとミステリ、時期は多少前後するものの、近接する若いジャンルの旗手がそれぞれに版図拡大のために十代の読者を標的に定めたのは戦略として正しいし、若者が新しいものに敏感なのは昔も今もかわらない。
 数年前、劇場用アニメーション作品として生まれ変わったのが、筒井康隆の名作『時をかける少女』だ。これもまたジュブナイル。そして『ねらわれた学園』と同じように、実写映像化を何度も為されている。「時をかける少女」の細田守監督は自ら脚本を手がけて、原作小説と先行する映像作品に敬意を表するかたちで現代の"時空の旅人"を描きあげた。本作「ねらわれた学園」の中村亮介監督もまた脚本に名を連ね、新たな"超能力闘争"を描いている。「時をかける少女」と「ねらわれた学園」、いずれの作品も原作小説の発表当時とは時代があまりに変わった。今日の感覚では齟齬を感じる点を、基本設定を変更することで補正している。基本設定が変われば展開も変わる。つまり、双方ともに原作小説とは別物となっている。細田版「時をかける少女」が筒井康隆の原作小説から高く飛翔を遂げているように、中村版「ねらわれた学園」も眉村卓の原作小説から高く飛び立とうと試みている。果たして、それは成功したのか?

 はじめに云っておく。本作にはいろいろと瑕疵が見受けられる。挙げてゆくときりがない。公開前の作品を腐す趣味はないのでそんなことはしないが、ではつまらないのかというとそれは違う。十四歳。この年代の切実で頑なで生意気なところを本作の登場人物に感じられて、その時代を通り過ぎた身には彼らを無碍には否定できない。そして、それはこの作品についてもいえることだ。
 瑕疵はある。それがどうした。中学生の言動に青臭いところがあって、そこがどうにも気恥ずかしい。イヤイヤ、それがなんだというのだ。壊れている点に魅力がある。まして感情を揺り動かされるのなら、それは作品に力があるのでは?
 つまり、私は「ねらわれた学園」を嫌いじゃない。

amazon:[文庫] わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)  変容はひとりの女子生徒から始まった。その生徒は前年度に携帯電話を介した出来事で心に傷を負い、以来、登校拒否を続けている。今年度も二年生。中学での留年はますます彼女を学校から遠ざける。山際ゆりこは飛び降り自殺を夢想したが、通りすがりの少年によってそれが本気ではないことを看破される。
 看破。否、少年はゆりこの心のうちを正確に読み取っていた。そういう能力を彼は有しているのだ。
 道具に頼って他人と本音で向き合うなんて幻想は捨てて、多くの人間に本来的にそなわっている力を用いるべきだ。君にその力があるなら君を取り巻く世界は変わる。扉が開くかどうか試してみる?
 十代にとっては重すぎる孤独をそれまで抱えていた少女は、闇の中に光輝ける道を示されて救われた。自分のなかの素晴らしい力に目覚めて、それまでの劣等感が反転する。
 自分でも気付かなかった才能や能力に目覚めて、これに関して優越感を覚えることは悪いことではない。そのことが自信に繋がって生きてゆくのに前向きになれるのなら、それは才能・能力それ自体よりも価値があるといえよう。
 しかし、中学生の主観においてあまりにも長い時間をゆりこは孤独に過ごしてきた。これを彼女は自分が世界から逸脱したと考えたろうか? それとも世界から自分ひとりが弾き出されたと思い込んだ? いずれにせよ、導かれて真理に到達したものと思い込んだゆりこは、今度は"真理"を錦の御旗に掲げる。山際ゆりこは能力に目覚めた。それによって新たな知見を得たものの、それが本当に真理なのかどうかは、その能力が一般的に誰しもがそなえるものとなる時代の人間さえもわかるまい。まして現代の中学生が真に理解できるものではなくて。
 自分は間違っているかもしれない。彼女が一度でもこのように考えられたなら。理念はともかくも方法において正しくないかもしれないと思ったなら、物事は大きく変わっていただろう。何事も"絶対"ということはない。
 幼い価値観に見合わぬ力は、歪な権力構造を生む。一個の能力を有するか否かは個性のひとつでしかないのに、その有無のみが個人を評価する基準となるというのでは、やがて選民思想に繋がるだろう。独善的で排他的な考え方が権力と結び付くことで招来する状況がどんなものかは、これまでの人類の歴史が示している。
 差別と弾圧が始まる。

わが闘争(下)―国家社会主義運動(角川文庫)  狂信に支えられた行動には限度がない。その主観において自分が間違っているとは考えず、むしろ為すべきことを遂行していると思い込んでいる。だから、差別やそれによる弾圧を加えていたとしても、そのことに気付かない。
 本作に見られる差別と弾圧は、そうはいっても携帯電話の使用を制限というかたちで表れる。それ自体は納得という意見も多いだろう。学生の本分は勉学に勤しむことであり、携帯電話それ自体の是非はともかくも学校内で使う必要は認められない、と。緊急時の連絡に使用するという意見もあるだろうが、学校という管理された社会にあっては、外部からの緊急連絡は取り次いでもらえるので、校内にいる間は携帯電話を強いて使うことはない。山際ゆりこの主張もなるほど理解できる。
 人間社会に入り込んだ携帯電話は、通話のみならずメールの送受信にインターネット端末として使用が可能である。手軽にゲームをすることができるとあって、それこそ学業を妨げかねない。携帯電話は、万能とはいわないまでもあまりにも便利で身近な代物だけに、それを使うのに相応のリテラシーをそなえてなければ凶器となる。携帯電話は道具であるが、日常の様々な道具が殺人の凶器となり得るように、たやすく人を傷付けられる。そしてそれは諸刃の剣なのだ。
 たかが携帯電話。されど携帯電話。
 あまりにも便利であまりにも身近なあまり、携帯電話の使用には悪意が介在しやすい。そしてそれは超能力も同じ。それを扱うに相応しいリテラシーをそなえずに大いなる力を振るう。本作はその危険性に警鐘を鳴らしているのだ。超能力だの未来だのと現実から乖離しているように思われるかもしれないが、これは現在の世界のあり様をそういうものに仮託して描いているにすぎない。
 だからといって安直な結論に飛びつくのは如何なものか。携帯電話を悪と決めつけてこれを排除するというのは、問題の解決には寄与しない。そこには新たな問題の萌芽がある。
 超能力を自在に操れるようになった少女は、携帯電話の件で己が傷付いたことを忘れてしまったのか、自分が"持つ者"の側にまわったことをよいことに"持たざる者"を差別の対象とし、やがては弾圧するようになる。"持つ者"が生徒会を掌握しての独断専行。分別あるはずの大人すら"教化"して従えるほどに力とその使い方を自分のものにする。自分たちのやり方への異議を一顧だにしない排他性は、かつての自分を作り出すとゆりこは考えなかったのか? 昨日の被害者が今日は加害者になってしまっている。
 ここに至って、超能力が復讐の道具になってしまっている。人を支配するための絶対的な権力のように感じている。力による支配は、より強大な力の前に覆される。
 冒頭において、本作には瑕疵があると述べた。その最たるものが、関ケンジを最強の超能力者と設定したことだ。強大な力を有する者が、それを思うままに振るうことにどんな意味がある? 数十年前、京極少年や高見沢みちるの超能力者を相手に、関耕児ら二年三組の生徒が命懸けの戦いを挑んだ。たとえ勝ち目がなくとも難敵に立ち向かう姿にこそ訴えかける力があるのだ。力の大小ではない、信念によって為される闘争を描くことができるというものだ。
 超能力合戦を求めるのなら「幻魔大戦」や「AKIRA」を観るよ。この設定は明らかに失敗だ。

amazon:[Blu-ray] ねらわれた学園  安直に力を恃むところがいかにも若い。否、若いというより幼い。
 幼いながらも自分の行動の是非を省みるのが十代。見識を得んがため、様々な体験を自ら求める姿には声援を送りたくなるが、自分勝手な正義を振りかざして人を従えようとするのを見ると意地悪したくなる。これはこれで稚気に違いないな。
 幼さを指摘、あるいは見守る大人の視点がないことも本作の瑕疵といえよう。原作小説には耕児の父母や担任教師が大人としての役割や存在感を示しているが、本作では大人の存在感は稀薄である。しかも大人としての役割を果たすのは、老いた関耕児と担任教師だけ(彼が美術の教化担任であるのは、原作小説への"復讐"であろう)。まるで子どもの王国。あたかも子どもしか描けないかのようだ。
 過ちを認められればその体験は血肉となり得る。間違いを、若さを理由に赦される時期というのが人生にはある。そのさなかにいるときは気付かないが、長じてからその時期は短かったと思い知る。
 増長するも青春、挫折してこそ青春。超能力に目覚めて自分が特別な人間だと思い込み、水着一枚の男子生徒に蹴散らされて上には上がいることを痛感する。
 若さの強みはやり直しがきくことだ。この時期、主義主張を翻すことは変節ではない。自らの間違いを認めて自分らしくあるために正しかるべき道を行く。
 本作の登場人物は迷いの闇に輝ける光に魅せられた。あまりに眩しくて、だから正しくあろうと心がけても誤った道を進んでしまうこともある。そんな場合、年長者がきちんと導くべきなのだ。それが大人としての役割である。
 とまあ、こんなふうに考えるのも私が大人になったからだ。自分が中学生の頃、今のような内容を語られたら、「頭ごなしに何を偉そうに」と思っただろう。反抗し過ちを認めず反省しない。特別な能力さえも持ってやしないというのに。
 だから本作に見るのは、繰り返すようだけど、いつか来た道なのだ。
 瑕疵はある。それもひとつや二つではない。到底看過できないものまであるけれど、今の時代に対する警鐘とそれでも気付かぬ者への平手打ちという点で、やっぱり本作を嫌いになれない。中村亮介という映画監督は、まだこれでいいのかもしれない。

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