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 このブログで前々回前回と京極夏彦氏の講演を取り上げた。それによって小説家・京極夏彦のものの捉え方についてそのいくばくかはわかったように思われる。わかったような気になるのが駄目だといわれればそれまでだけれど。
 前回の記事は以前のブログからの再掲である。再掲するにあたって少なからず手を入れたけれども、それは読みやすいよう誤読を減らすよう表現を改めたのとこのブログの体裁に沿うかたちにしたまで。内容を改変してはいない。それでも実際の講演内容と異なる内容となっていたら、それは私の理解度と表現力が原因だと思ってほしい。
 最近更新が滞っていることもあって、過去のブログにおいて京極夏彦について語ったりその著作を取り上げたりした記事から前々回前回の記事の内容に関連したものを再掲してみることにした。が、しかしこれがいきなり暗礁に乗り上げる。データを「京極夏彦」で検索すると、その記事数が思ったよりもずっと多いのだ。
 たしかに私は京極夏彦のファンである。氏の著作のすべてを読んでないけどファンである。その著作に少なからず影響を受けてるのは自覚している。しかし、実際は思った以上に京極夏彦信者であった。京極夏彦とまるで関係ない外国映画をレビューする際にもその名を挙げているのはどうしたものか。自分でもびっくり。
 とりあえず先日の「世界の半分は書物の中にある」と題した講演の内容に沿ったものをと探していると、阿刀田高氏の『海外短編のテクニック』を取り上げた記事があり、そこに読書の延長にある書評についての考察があった。「無間書物地獄」では、講演で語られた文芸評論については触れなかったので、その記事を再掲することに決めた。
 なお、今回はテーマが変わってしまっているので、手直しをせざるを得ない。

amazon:[文庫] 文庫版 邪魅の雫 (講談社文庫)  京極夏彦氏の著作、『邪魅の雫』にこんな場面がある。
 仕事の相談に乗ってもらおうと中禅寺秋彦のもとを訪ねた益田龍一。そこには先客があった。それは自著の書評を目にして酷く打ちのめされた小説家。関口巽は自分ひとりの力で現実に立ち向かえず、こういった場合の常で京極堂に愚痴をこぼしに来ていた。そしてこれも相変わらず仏頂面をさげた古書肆は、関口の訪問を受ける常でこの旧知の知人をコテンパンに叩きのめす(中善寺秋彦は関口巽を友人として扱わない、絶対に!)。
 小説家・関口巽を打ちのめし、彼に眩暈坂をのぼらせた書評。ところが、そもそも書評というものの捉え方を関口は間違えていると京極堂は云う。京極堂によると、書評は四つの種類に分けられるとのこと。
 彼が創作物を林檎になぞらえて整理してみせた書評とは以下の通り。
 1、紹介
 2、宣伝
 3、感想
 4、空想
 1の「紹介」とは、「ここに林檎があります」といった事実を述べること。そして、この林檎は美味しいから買いましょうと書くのが、2の「宣伝」だ。実際に林檎を食べてみてその味を云々するのが「感想」である。ちなみに、ここまでの三種類の書評を、京極堂は「読み書きができれば犬や子供でも書ける」という。
 次の「空想」というのは、林檎を題材にしてその栽培法であるとか、林檎の植物としての位置付けとかを述べたものである。これは実際に件の林檎が如何に育てられたかどうかは問題ではない。林檎という一次創作物をもとに、どれだけ面白い読み物を仕立てあげられるかが眼目だ。
 先日の講演においても京極夏彦氏は評論家について語った。
 小説において「読書とは誤読である!」と断言する京極夏彦氏。続けて「誤読で正解なのだ!」とも。そのうえで文芸評論というものは誤読の面白いものがそう呼ばれるのだ、と。
 読書が誤読で、すべての誤読が正解ならば、文芸評論だけをありがたがったり権威付けしたりするのはおかしなことだ。評論も創作物である。ならば、どのように面白がろうとそれは読者の自由だ。新聞や雑誌に載ったり多くの支持を集めたりするからといって、その書評で示された読み方だけが正しいわけではないのだ。
 林檎の育て方や食べ方はひとつじゃない。それらを強制されるいわれもない。

amazon:[新書] 海外短編のテクニック (集英社新書)  阿刀田高『海外短編のテクニック』を読んだ。
 本書は、著者が任意で選んだ小説家とその短編作品について書かれている。モーパッサンやチェーホフ、ヘミングウェイといった文豪の作品だ。国語の教科書に載るような作品群を前にして、しかし身構えることはない。それは本書の内容が「この作品はかく読むべし!」という教条主義とは無縁だからである。
 本書の著者は、先人の足跡や思考の筋道を辿り、そこから見出した創作上の隠し味を探ろうと試みる。隠し味だけあって、本書には「レシピ」という単語が頻出する。
 現存する作品から失われたレシピを探る。これが本当の林檎ならば産地や栽培法についての正しい情報はある程度得られよう。しかしそれが小説となると、事は林檎のようにはいかない。作者の胸のうちは、ともすれば本人にもはっきりしないからだ。

 先に挙げた京極堂の言葉と本書における著者のスタンス、まるで同じと断言するのは大袈裟だろうか。
 阿刀田高氏の「空想」が本書の読者に読書の持つ愉しみの一端を示す。本書に取り上げられた作品のうち、その多くを読んでみたいと思わせられたのは、これは阿刀田高という作家の筆力によるものだ。
 私が特に興味を持ったのはヘンリー・スレッサー。私の好きなタイプの物語を生み出した小説家のようだ。作品集が早川書房から出ているので読んでみようかしら。
 第10章で取り上げられているジュンパ・ラヒリの作品は、映画化されているようだ。ちょっと興味をひかれる。

 本の内容を語るに、「面白いか面白くないか」で評価するなら『海外短編のテクニック』は間違いなく面白い。これは阿刀田高の名前や集英社新書のレーベルに惑わされているのではなく、読んで感じたことだ。つまり、阿刀田高氏の誤読と「空想」が面白いことにほかならない。
 どう感じようと自由だし正解であるというのは、実に気持ちのよいものだな。

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