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無間書物地獄

 七夕の土曜日、東京は台場の国際展示場ビッグサイトで開催の第19回東京国際ブックフェアに足を運んだ。狙いはゲストを招いての読書推進セミナーだ。この日は京極夏彦氏が「世界の半分は書物の中にある」のお題で講演するという。
 この企画は入場無料ということもあり、これは是非とも行かねばならぬとアナウンスがあって早々に聴講申し込みの予約を入れた。さて、どれだけの数の京極夏彦ファンが集まることか。このときはまるで予想できなかった。
 開始時刻が13時ということで、のんびり会場入りしてみると入場受付が予想外の場所。指示に従って向かった先はたいして広くない部屋。京極夏彦の講演会にこのキャパシティはない、と思ったら前方に大きなモニターが。アレ、ここで中継を観るの?
 なんとこの講演に三千もの予約が殺到してしまい、それだけの聴衆を収容するために本会場とは別にサテライトを二部屋用意したのだという。この集客力は並みのアイドルでは敵わないだろう。京極夏彦パワー恐るべし!
 モニターに映る無人の演壇をただただ眺める時間が流れて、そしてひとりの書痴が現れる。

 さて、ここでひとつお断りであります。
 このあと、私は「世界の半分は書物の中にある」の講演内容をここに纏めます。今、ここに述べましたように、これから書くことは京極夏彦氏による講演を自分なりに纏めたものです。京極夏彦氏の言葉を咀嚼して胸焼けを起こして寝込んでちょっと吐いてでも飲み込んで消化した内容となっております。
 書き終えてから何度か読み直しましたが、せっかくの京極夏彦先生のお言葉が私の胃液まみれでございます。ネットリしてます。
 私の逆流性食道炎のCT画像を見てもよいという気構えの方はこのまま読み進めてくださいませ。そうでない方、悪いことは申しません、「戻る」をクリックなさいますようお勧めします。
 また、私の飲み込みが悪いために京極夏彦氏の語った内容とは異なる部分が出てくるかもしれません。否、出てくるでしょう。あるいは私の語彙の少なさに起因する表現の間違いが生じているかも。その他諸々、本文の責任は講演者の京極夏彦氏にあるのではなく、私サテヒデオにありますことをご承知くださいますようお願い申し上げます。

amazon:[文庫] 文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫) 「世界の半分は書物の中にある」とはどういうことか?
 京極夏彦は言葉を積み重ねる。その著書をレンガ本だの殺人凶器だのと表される小説家は、予定時間の七十分をいっぱいに使って、それだけの言葉を費やして「人(日本人)」と「世界」について物語った。
 私たちは老けてゆく。最近はアンチエイジングなんてものが流行っているけど、時間を無理矢理巻き戻そうとするのはどうにも感心しない。
 いや、そもそも時間を逆戻りすることはできない。同じように時間を先取ることもできない。
 過去には戻れない。未来にも行けない。現在にしか居られない。けれど言葉として知っているので「過去」や「未来」を当然のように受け入れている。
 私たちは、目の前にあるものしか見えないし、空気の振動として伝わってくるものしか聞けないし、手がのびる先にあるものしか触れられない。今、ここにある物事しか感じ取ることはできない。
 私たちには「今」しかないのだ。けれども、意識の連続性によって記憶が保たれ、「さっき○○なら今も○○だ」と当たり前のように認識する。扉を開けた向こうは密林に変わっているかもしれない、否、そもそもが密林だったのかもしれないのに。実際に扉を開けてみなければそこに何が広がっているか決定できないのに。
 ここで疑問になるのは、「過去」「現在」「未来」とは何かということではなく、そもそも「時間」とはどういうものなのか、だ。
 時間って何?

 疑問を投げかけておいてこう答えるのはおかしなものだけど、「人間は時間に対して何も説明できない」というのか本当のところだ。
 一次元の点から二次元の面、そして三次元を空間というふうに把握し、それらに対して私たちは少なからず働きかけをすることができる。この現実世界でしかも時間の流れを認識することから、四次元の世界に生きていると考える向きもある。
 でも、四次元の「時間」というものをどうにも説明できないので、私たちは三次元に立ち位置を求めるのに精一杯。
 このように時間を説明することはできないけれど、時間を計測することは可能だ。
 人間は、刻まれた断片を重ねたかたちで時間を捉えることを可能にした。説明不能な「時間」というものを分割して計測する。つまり、「時刻」だ。
 この「分割」ということが意味するのは「デジタル」であるということだ。デジタルとアナログは時計の表示の違いではない。「分割」か「連続」かの違いである。
 動物はパターンを認識することはできるが、日々の違いを認識できない。動物には昨日も今日も明日もない。それに対して人間はデジタルな概念を有することができる。
 人間は刻んだものに名前を付ける。どういうことかというと、これは「言葉」について述べているのである。分割された「世界」のあらゆるものを名付ける。これこそが「分割」の次に人間が手に入れたデジタル技術である!

amazon:[文庫] 文庫版 鉄鼠の檻 (講談社文庫)  禅は不立文字である。これは「言葉」で「世界」は表せないことを意味している。シニフィアンとシニフィエの関係と同じだ。
 言葉とその意味するところは実は関係ないのに、人の頭の中では言葉と現実とはがっちりリンクしている。しかも、それが実際とは違うかたちで理解されていることも少なくない。
 たとえば、生と死。これらは対を成す概念とされている。しかし、これは間違いである。一本の30cm定規を思い浮かべてみる。0cmが「生」とするなら30cmは「死」である。0cmのところには30cm分の質量があるが30cmのところの質量はゼロだ。ならば10cmのところには20cm分の質量があり、そしてそこにおいても「生」ではあるのだから、0cmのところのみを「生」とするのは間違いということになる。よって、0cmのところは「生」でなくて「誕生」とすべきなのだ。生と死を対立項にするから、30cmの先にありもしない死後を作り上げることになる。そしてその「言葉」は「死後」の概念を強固なものにしてしまう。
 なるほど、妖怪も「言葉」による現象の固定化なのだな。
 そもそも「言葉」は音だ。音を絵に置き換えるのが「文字」だ。
 象形文字の成り立ちから考えられるように、絵を記号化したものが「文字」である。そして絵を描くことは「過去」を留めることにほかならない。今や芸術性さえ見出されているラスコーの洞穴壁画も、ただ「牛がいた」だの「コレ、俺の手形」だのと記録に残しただけ。そもそも記録の意識すらあったかどうかもわからない。
 絵に描かれることで過去の記憶は記録され、そして絵がいくつか組み合わされることで記号化がなされて「文字」が誕生した。「世界」は記録に残せるようになった。

amazon:[文庫] 日本の伝統色―その色名と色調  目にしたり耳にしたりすることがあるかもしれないが、「言葉は文化だ」という文言がある。これはいったいどういう意味なのだろう?
 ここに似たようなかたちの漢字がある。「蛙」と「虹」だ。
 蛙は両生類の生き物だ。生息地域によって多少は種類に違いがあるだろうけれど、日本の蛙とドイツやアフリカのそれぞれの蛙とは生き物として大きく違うわけではない。アフリカの蛙は哺乳類というわけでもあるまい。
 しかし、虹については事情が違う。
 虹は日本では七色だ。けれども世界のある地域では五色とも四色とも考えられている。虹を二色にしか捉えられていない地域さえあるらしいのだ。日本人とドイツ人とアフリカ人とでは、虹は同じ気象現象なのに色の捉え方が違うのだ。アフリカ大陸は広大だから、ひと口に虹の色といっても地域によって色数からして違う。
 この虹の色の捉え方の違いは、デジタルの仕方の違いが表れているのだ。七つに分割するのか、五つに分割するのか四つに分割するのかということで、そこに見えているはずの色の存在が左右される。色に名前がなければ、色の違いを認めていてもその色は存在しないことになる。
 このことからわかるように、「言葉」の数だけ「人」は「世界」を手に入れられる。「言葉」の数だけ「世界」を「分割」していることになる。これはつまり、「世界」を大雑把に分類しているのではなく、緻密に詳細に分類していることを示している。こういうのは日本人の得意分野だ。
 だから、同じ水妖でも「河童」と「川赤子」と「岸涯小僧」はそれぞれ違う妖怪なのだな。「言葉」があるからにはそれは分類の異なるものでなければならない。似てるけれども違う存在なのだ。
 日本には色の数も「笑う」という表現も多い。「四十八茶百鼠」なんて言葉は茶色と鼠色の数の多さを示すものだし、喜怒哀楽についての表現の多さは明確な意思表示をしない国民性を示している。
 梅雨の時期だからことさらに思うことだけど、本邦には雨の名前や表現も多いよなあ。「雨がふるふる城ヶ島の磯に、利休鼠の雨がふる」は、厳密には雨の名前や表現が使われていないけれど、どうにも風情ではないか。
 このように、「言葉」はその一語一語がその文化圏における「世界」にリンクしているのだ。だから「言葉」が失われることこそ、文化が失くなることにほかならない!

 文化的な背景を持つ「言葉」だが、「言葉」の喪失はその文化圏全体で生じるものではない。個人レベルにおいても、語り手が「言葉」を知らなければ伝えたい事柄を的確に伝えられない。聞き手も語り手の使う言葉を知らなければ意味を正しくつかめられない。
 共通認識こそが文化といえるのかもしれない。
 ところで、小説家に向けられる質問に「文章修業はどうやるの?」がある。
 自身は文章修業の経験を持たないと語る京極夏彦氏。氏が云うには、悪文には二つの種類がある。ひとつに、云いたいことがちゃんと整理されてない場合。もうひとつが、云いたいことを的確に表現する語彙がない場合。
 個人的にわかりすぎるくらいわかるなあ。胸にズドンと楔を打ち込まれた気分だ。
 頭の中を整理して語彙を豊かにして読みやすい文章を綴ったところで、小説の書き手が「こう読んでほしい!」と意図する読み方を読者はしてくれない。これは声を大にして断言していたが、「(小説においては)読書は誤読だ!」とのことだ。しかし、誤読ではあるのだが正解なのだという。
 ひとつのテキストから汲み上げるものが読者それぞれ違う。これは読者それぞれに「語彙」が違うのが理由だ。先にあったように「文字」は音に変換して「言葉」になる。読者のなかで「言葉」は訛りやアクセントによって意味が付加される。
 この講演は三千人が聴いているということだけれど、三千人を面白がらせるのは至難である。これは、一人ひとりに面白がるツボが違うのが理由だ。
 平仮名、片仮名、漢字、アルファベット等、日本語表記における記号の多さや記述方法の多彩さは、世界に数多ある言語体系においても群を抜いている。日本語を操ることは、デジタル技術において高度なレベルでそれを為し得ることを意味する。つまり、日本人や日本語の堪能な者は、世界認識に長けているのにほかならない。
 だから、このたぐいまれに優れたる日本語のデジタル技術を向上させることを止めてはならない。「世界」をできるかぎりありのままに認識するには「語彙」を増やす必要がある。そして、それには本を読むしかないのだ!
 とはいえ本は高い。
 そもそも書物とは一般庶民の手にするものではなかった。小部数を版元がそのまま売っていた。書物を自分の手元に置いておきたい者はその内容を写し取るのが普通であった。
 書物の価値は高くて当たり前だった。
 しかし、時代が変われば物事の意味合いや価値も変わる。
 現在、言葉の変遷が取り沙汰され嘆かわしい等といわれるけれど、そもそもが言葉は変化するもの。「新しい」は今でこそ「あたらしい」と訓むがそもそもは「あらたし」であった。「あらたし」がどうにも云い難いので「あたらし」になったという。
 また、ら抜き言葉が言葉の乱れの象徴の如く矢面に立たされるが、これだって明治時代から使われていたのだ。それが目立つようになったのは、文字として表記されるようになったからだ。かつて日本では文語体と口語体とが使い分けられていたが、言文一致が為されて話し言葉がそのまま書き言葉となった。このことから、ら抜き言葉のようにかつては記録に残らなかった表現も、現在では散見するようになったのだ。
 言葉は変わるからと古文をなおざりにするのはよろしくない。古文はその時代の「語彙」が使われている。「語彙」によって「世界」は物語られるのだから、つまりは古文を通じて当時の「世界」を手に入れられるのだ。
 またこれはこれまでのテーマとズレるけれど、古文は声に出して読むととても美しいのだ。現在の発声にはない鼻濁音を使って読むと、日本人には耳に心地好く聞こえる。雅楽も然り。
 西洋音楽の音階、ドレミのそれはデジタルの技術である。しかし雅楽をはじめとする世界の民族音楽の多くはドレミで分割されない。その奏法の多くは連続性の中にある。アナログなのだ。

amazon:[文庫] 文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫)  小説は作家が書き上げた時点では未完成。読者に読まれてはじめて作品として完成する。
 先に「読書は誤読!」と断言され、続いて「誤読は正解!」といわれた。自分の読みたいように読み、そのなかで何かを感じたならそれは作者が偉いわけではない。そのように読み取った読者が偉いのだ。
 世に出た本の中で、たとえそれがつまらないとされる本でさえもそれを面白いと感じる人間がいるはず。少なくとも作者と担当編集者の二人はその本を面白いと信じているはず。その二人が感じている面白さを読者としてともにできないのなら、それはその本を面白がれるセンスを自分が持ち合わせてないことになる。それって損じゃない?
 食わず嫌いの料理や食材のない男が自らの座右の銘を明かす。
 この世に面白くない本は無い!
 一読して面白さを感じられなかったならば、二読三読、その本を面白く感じられるまで読むそうだ。それこそ何度も何度も。面白さを感じるツボが自分にそなわってなくてもひたすら読む。そうすることで自分のなかに面白さに対応するツボが生まれるとのこと。
 最悪、内容に興味をひかれなくても、装丁に施された拘りを気に入るのもいいだろう。そこに面白みを見出してもよいではないか。ここまでくるとノイローゼのようにすら感じられるのだけれど、他の人はどうだろう?
 一冊の本が世に出る。そこには出版に携わる人がいて、そしてその本を読む人がいる。小説はそれを読む人がいてはじめて物語を完成させる。個々の読者がそれぞれに世界を作り上げる。作者はひとりであっても、物語の完成までには数多くの人の労力とそれを支える情熱が必要とされる。その情熱が当たり前のようにそなわって、素知らぬ顔して店頭に並んでいるのが本だ。
 世界の半分は書物の中にある。「語彙」によって「人」と「世界」はリンクする。「世界」は「文字」によって記録される。このことから「世界」の半分は「語彙」の探索行の先にある書物の中に存在するわけだ。そして、読書によって読者の頭のなかに読者それぞれの「世界」が立ち上がる。これら二つの意味において「世界の半分は書物の中にある」といえるのだ。
 本を読むたびに「世界」は新たな表情を見せる。一冊の本においても初読と再読では「世界」は異なる顔を見せる。「過去」にも「未来」にも行けるし、生と死を超越することもできる。本は価格が高いという人がいるけれど、とんでもないことだ。どこにでも行けてちゃんと帰ってこられる。こんな面白くてしかも安上がりな旅はない。
 この講演を引き受けるに当たって小説家というような出版人としてではなく数万の蔵書を抱える本のヘビーユーザーとして臨む気構えであったとは本人の弁。さすがは「この世に面白くない本はない!」を座右の銘にする御仁だ。
 なるほど、確かに本を読むのは面白い。
 この講演の結論。

 本は高くない! そして本は面白い!
 だから、本を買いましょう!

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Comments:2

tenmama 2012年7月 8日 22:56

なるほど、そういうことだったのですね!
生じゃないって一体どういうことだったのかなー?と
違うところで京極先生のモニタイベントでもあったのかな??などと思ってしまっていました。
やっぱりビッグサイトだったのですね!
他の参加者の方もあまりの人の多さに仰天したことでしょう~
この講習会に参加できずとも記事を拝読すると、氏のお話しの概要が掴め、嬉しくなります。

私は本日ブックフェアに行ってきました。全然予想していなかったのですが、夢枕氏と寺田氏の対談を割と間近で聞けて嬉しかったです。連れは往年の獏ファンなのでした。

来年の同イベントにも期待してしまっている自分がいます。今からお金を貯めておかねば~

サテヒデオ 2012年7月 9日 19:26

tenmama様
 またまたコメントくださいましてありがとうございます。
 生ではなかったですけれど、京極夏彦節を堪能しました。開始時刻ギリギリに入場したわけではなかったのですが、サテライトということになりました。三千人ですものねえ。
 記事の内容をお褒めいただきまして光栄ですけれども、実際に京極夏彦氏の講演を聴かれるのが一番! 次の機会には是非!
 日曜日は夢枕獏氏と寺田克也氏の対談があったのですか! 知らなかった。行けばよかった!
 来年以降の東京国際ブックフェアへの参加は、本格ミステリ作家クラブでの散財とブックフェアの企画次第ですね。なんにせよ今から軍資金を貯めておかなければ!

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