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へのへのもへじ

「フェイシズ」公式サイト 「フェイシズ」を観た。
 主演はミラ・ジョヴォヴィッチ。その美貌は目に力のあるところが特徴として挙げられる。いわゆる瞳美人だ。最近はアクション映画への出演が目覚しい彼女だが、本作ではむしろ暴力的に奪われる"弱い存在"を熱演。これもミラ・ジョヴォヴィッチという女優の器なのだ。
 そのミラ・ジョヴォヴィッチ演じるヒロインは、頭部負傷の後遺症として"相貌失認"を発症する。
 本作のチラシを読むと、"相貌失認"とは「人の顔や表情が判別できない記憶障害の一種」とある。
 京極夏彦『狂骨の夢』の作中人物にやはり相貌失認を発症した女性が出てくる。彼女とアンナとの違いは、その症状があらわれた時期である。
 本作のヒロインは、ある日突然に人の顔を見分けられなくなる。仲の良い友人も愛する恋人も、実の父親さえも正しく判別できない。そしてこれは他人に対してのみ起こるわけではなくて、鏡に映る自分の顔さえも見知らぬそれとして認識する。
 これまで積み重ねてきた経験は、その思い出自体を失ったわけではない。いつ・どこで・誰と・どんなことをしたか、ちゃんと記憶に残っているけど、「誰と」という点でその顔を思い出せないだけ。名前やその人物との関係性はわかるのだけれど、並んでともに笑顔を向けている写真の顔に見覚えがない。

 誰?

 小学校の教員であるアンナはブライスとの同棲を始めたばかり。親友のフランシーンとニーナとは男遊びを繰り返してきた間柄だが、ブライスとの関係は結婚を視野に入れているので、ここでハメを外すわけにはゆかない。
 三十路過ぎの女子会を終えた帰り道、アンナは殺人の現場に遭遇する。「涙のジャック」と呼ばれるシリアルキラーは、女性の喉を切り裂き、死にゆく被害者をレイプし、その二つ名の通りに涙を流す。
 アンナは涙のジャックの凶行に偶然にして居合わせ、そして襲われる。抵抗するうちに橋から転落したアンナは、その際に頭を強打する。
 病室で目覚めたとき、アンナは見知らぬ男女に囲まれて、しかも彼らは自分を知っているようだ。気安く話し掛けられ、そのうえ触れられて、アンナはパニックに陥る。彼らはブライスにニーナとフランシーンだと自称する。
 恋人と親友?
 ブライスは恋人だしニーナとフランシーンは親友だけど、目の前に並ぶ顔は知らないわからない!
 いったい誰なの?
 どういうこと?

amazon:[文庫] 文庫版 狂骨の夢 (講談社文庫)  側頭葉の負傷からアンナは相貌失認になってしまった。
 人は十億分の一秒という時間で顔からその人物が誰であるかを識別する。アンナはこの機能が壊れてしまった。顔に目や鼻や口があってその形や大きさといった違いが人それぞれにあるのはわかるのだけれど、それらの違いと個人の判別とが結び付かない。それが"顔"であることは勿論、外見上の特徴はきちんと把握しているものの、そういったことが個人を判別する手掛かりにならないのだ。
 相貌失認は記憶障害の一種である。リアルタイムで視覚情報を留められないのと同じく、過去の記憶にあっても顔と名前の不一致が起きてしまう。相貌失認になる前に見た顔であっても、思い返すときには誰が誰だかわからない。思い出のなかの顔はどれも見知らぬ他人のようで、誰が誰とも指摘できない。
 写真やビデオといった外部記録もアンナの相貌失認の症状から逃れられない。行きつけの店で撮ったらしいスナップも店の内装からそれと知れるのであって、そこに写る顔ぶれはこの写真が誰を撮ったものか何も告げはしない。
 本作では同一人物を何人もの役者が演じるかたちをとって相貌失認を表現している。ブライスなどは十人以上の俳優が彼を演じて、エンドロールでは「ブライス其の一」「ブライス其の二」といった感じでズラズラッと並ぶのを見て笑った。
 顔を見て個人を認識できないという感覚を表現するのに知恵をこらしているのが、こういうところからわかるというものだ。

 人の顔を認識できないことで、アンナは日常生活を送れなくなる。同棲相手のブライスを彼と認識できないことから、ちょっとした接触すらも嫌悪感を抱いてしまう。誰とも知らない男が肩を抱きキスを迫る。ブライスを愛しているし彼と結婚したいけれど、目の前の男がブライスだとはどうしても思えない。
 ニーナとフランシーンとは長い付き合いで、ともに同じ時間を過ごしてきた間柄。異性関係については三人で狩りの腕を大いに競ったものだけれど、眼前の二人組が過去の出来事を語るたびに見知らぬ他人から個人的な秘密を指摘されるようで居心地が悪い。彼女たちがニーナとフランシーンだなんてにわかには信じがたい。
 娘を見舞った奇禍に心配した父親が訪ねてきても、あろうことかシリアルキラーと勘違いする始末。同じ血が通っていてもこのありさまだ。
 職場では生徒が全員同じ顔で出迎えて、保護者の区別もつかない。以前は生徒の個性を把握していたし家庭の事情にも通じていたのに。
 顔を認識できないのは他人ばかりではない。鏡に映る自分の顔さえも見覚えのないものに。そこに目があるのはわかるからアイラインを引くし唇には口紅を塗る。だけど全体として顔を眺めると、それが自分の顔として認識できない。自分の顔という実感を持てない。
 シリアルキラーに襲われたものの凶刃はアンナの命を断つほど長くはなかった。しかし、命拾いしたのとひきかえに彼女は"世界"を喪った。

 自己と他者とを区別するのに、その手掛かりとなるのは自他の差異を比較することだ。最も簡単なのは外見上の違いであり、差異が認められるかっこうの部位といえば、目線の高さにある顔ということになる。同じ器官が揃っていながら一人ひとりがそれぞれ違う形や大きさを持っている。
 鏡に映る自分とその顔。他人とその顔。一人ひとり違っている。この当たり前のことを繰り返し繰り返し認識して、自他の区別を意識に刻み込む。
 その当たり前の手立てをいきなり奪われる。
 過去を振り返ってもそこに自己と他者の区別はない。刹那は物凄い勢いで過去へと飛び去ってゆき、かつてはその勢いのなかで生きていたということも忘れて立ち尽くす。自己と他者。人が当たり前に確立している自己同一性と客観性を、本作のヒロインは失ったのだ。
 人は人との関わり合いのなかで生きている。この当たり前のことを、後天的に相貌失認になったアンナ・マーチャントは失ったことによって示してくれる。
 どうにも立ちゆかなくなったアンナは精神科医に助けを求める。未知となった世界を歩いて行くための方法論を身につけなければならない、早急に。
 個人の識別を外見上の違いに頼るのではなく、人が発する固有の信号をつかむことでそれを為す。その信号をオーラだの雰囲気だのと表現する向きもあろう。ランゲンカンプ医師がいうには、それは「音楽」。マリア・カラスに憧れ、それにもかかわらず聴覚を失った彼女らしい表現だ。
 世界は「音楽」に溢れていて、それを逃さずにキャッチすることが世界を正しく把握するために必要なのだ。
 世界の歩き方は伝授された。あとは前に進むだけ。

 相貌失認とその患者を描いて斬新な内容となった本作。しかし脚本をも務めたジュリアン・マニアは、そこにシリアルキラーを放り込んだ。
 人相を判別できない目撃者というのはミステリの観点からも稀有な存在であり、どんな展開をみせるのかと期待は高まるばかり。
 アンナは確かに「涙のジャック」を目撃したが、その顔を判別できない。
 涙のジャックによる一連の事件における初めての目撃者ということで捜査員は意気込むも、肝心の目撃者が犯人の顔を思い出せない判別できないときた。パニックに陥っての一時的な記憶の混乱というわけではないらしい。脳の損傷による記憶障害。一生かかっても治らないかもしれないとのこと。
 ガッカリだ。
 ケレストは、署のエースプロファイラーのラニヨンとコンビを組んで涙のジャックを追っている。一年前、一件の殺人が起こり、ラニヨンはこれをシリアルキラーの仕業と断じたが他の捜査員は彼の意見を取り合わず、そして数ヶ月後に同じ手口による二件目の殺人が。
 この一件があってから、ケレストはラニヨンの言葉に信を置いているし、そのきっかけとなったシリアルキラー「涙のジャック」の逮捕に全力を傾けている。
 このケレストだが、彼はアンナの特別な存在になる。髭をたくわえた、決してスマートといえない刑事風情が、再会したアンナを驚かせる。
 アンナがケレストと会って驚いたのには、彼を識別できるからだ。相貌失認になってからというもの、こんなことは初めてだ。
 謎のシリアルキラーの正体を追う流れと相貌失認。二つの流れを縦糸と横糸にしたタペストリーが本作だ。織り上げる過程でアクセントとなる模様を描く。アンナがケレストを認識するのは、「ケレストがアンナの相貌失認における異分子であるのは、彼がその発端において相貌失認の症状すら覆すような強烈な記憶をアンナに刷り込んだのかもしれない」と観客に思わせて、「ケレスト=涙のジャック?」と彼を疑わせる作話上の目的があるのだろう。ランゲンカンプ医師の「世界の歩き方」にあるように、ケレストがアンナにとって忘れがたい特別な信号を発しているのかもしれない、と。
 自分が識別し損なうことのない特別な人。アンナはケレストをこのように捉え、それが彼女のケレストに対する気持ちを変化させる。
 事件の渦中にあって警察を含めた関係者がそれぞれに気持ちに変化を生じさせる。それは事件の中心に鎮座する犯人も同じ。この点において本作はよく考えられている。ヒロインの気持ちの浮き沈みと物語の起伏とがリンクしていて、まさにサスペンスの教科書のようだ。
 アンナがケレストの顔をちゃんと認識した理由は二人の関係が幸福の絶頂にあるときに不幸なかたちで明らかとなる。それは拍子抜けするほど単純なもので、そこに"特別"な関係を示すものは何もないのだけれど、ケレストが判別できない顔の持ち主になったことでサスペンスは否が応でも盛り上がる。アンナはケレストと涙のジャックとを見分けられなくなったのだ。

 ランゲンカンプ医師による「世界の歩き方」でアンナが早速に取り入れたのは、人相以外で見分ける方法だ。
 ブライスと同棲しているのを幸いに、彼の装いをすっかりコーディネート。服装から見分けようとした。悪い手ではないが、付け焼き刃は否めない。もっと深いところ、その人の本質に迫る信号をキャッチしなければいずれ人違いが生まれてしまう。そして取り返しのつかない人違いを起こす抜け目のなさが本作にはある。
 よく練られた脚本とこれまでに体験したことのない感覚を表現することにおいて、本作は凡庸な作品ではないと断言できる。しかし、良作であることの収まりの良さが作品としての"歪な魅力"を感じさせないのが残念。あまりに優等生すぎて平均点以上というイメージ?
 なんかイチャモンつけているようで申し訳ないのだが、相貌失認の件が興味深くて面白くて新鮮味があって、それに比べてシリアルキラー絡みの展開は設定を活かしているものの、こういうジャンルにおいてはありがちなので対比として評価が辛くなる。面白くないわけではない。これは断言できる!
 ただ、"弱い"のだ。

amazon:[Blu-ray] フェイシズ  他者からの信号を受け取れるようになったとしても、都会で生きるのは困難を伴う。ランゲンカンプ医師の表現に倣うならば、音楽が同時多発的にあちこちで発生するのでその一つひとつを聴き分けるのは大変なのだ。人口の少ない田舎なら難しくはない。周りから発せられる信号が多くて処理しきれないなら、信号の数を処理しきれるくらいに減らしてしまえばよい。都会から田舎へ。これは当たり前の流れだ。
 ケレストの故郷に身を隠すことになって、田舎暮らしという道標を示されたことで結末は想像できる。この点でも優等生的な用意周到さが窺える。
 人が発する固有の信号の読み取りをできるようになることがアンナを涙のジャックへと導き、そのことが彼女を危険にさらす。この流れも物語として必然であり、巧いと唸るしかない。ただし、この脚本家はあまりに公正たらんと欲したものか、フェアに伏線を張ってしまったがために「涙のジャック」へは素直に到達できてしまう。犯人解明のカタルシスに乏しいのは欠点といえよう。
 多くの挑戦と練り上げられた脚本。高評価に値する要素はたくさんあるのにそれらが反映されないのは不思議だ。ウンコみたいな脚本でも諸手を上げて「面白い!」といってしまえる映画がある一方で、及第点はクリアしているはずなのに印象の薄い映画もある。
 映画は不思議だねえ。

 多くを喪ってヒロインは思い出の地へと流れた。喪ったものがあれば手に入れたものもある。喪ったことを含めて今の自分だ。今の自分にとって世界は優しいだけではないけれど、それでも生きてゆけないわけじゃない。私を必要としてくれる命があり、私自身が彼女を必要としている。
 生きている。生かされている。
 ときどき、あの人の面影を見るような気がするけど、果たして本当にあの人の顔だったかわからない。今は、この世界を歩いてゆこう。

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