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錆色の叫び

amazon:[単行本] ちょうつがい きいきい (怪談えほん5)  怪談えほん『ちょうつがい きいきい』を読んだ。
 本書は岩崎書店の「怪談えほん」シリーズ第五弾。文章を加門七海、絵を軽部武宏がそれぞれ担当している。
 怪談えほんのシリーズについてこのブログでは、先に第三弾の『いるの いないの』を取り上げた。たった32ページという少ない分量でありながら、それが突き落とす悪夢は底無し。ものすごい仕掛けだ。
 監修者の東雅夫がけしかけて京極夏彦と町田尚子が完成させた"呪い"は幼い読者にすら有効で、寧ろ無垢な感性にこそ効果的な"呪い"なのかもしれない。「見えないものは存在しない」を裏返して、「見えてしまったからには存在する」という"結論"を読者におのずから導き出させる手口は巧妙で、さすがは京極夏彦というところだ。当代でも随一であろう言葉の魔術師に気鋭の画家が力を貸して、古民家の屋内から心の平安を駆逐した。
 そして我が家は安全地帯ではなくなった。こうなったらどこに逃げ込めばいい?

 怪異の介在を可視と不可視のあわいに見出す『いるの いないの』に対して、『ちょうつがい きいきい』は何気ない生活音のなかに怪異の発現を見る。
 それは軋み。
 何かとナニかが擦れ合って音を立てる。そこに"おばけ"が現れる。悲鳴をあげている。
 主人公の少年はそこに己のうちなる不安を投影する。彼の恐慌はいかなる心理から生まれたのだろうか?

 文章と絵とがそれぞれ過剰に主張せず、それぞれを補完するような役割を果たしてこそ"絵本"は完成する。
 絵本において、文章は絵の説明文ではなく、絵は文章のための挿絵ではない。文章も絵も、ともに読者に情報を提示するもの。その表現において方法が違うだけ。方法が異なるだけにそれぞれ得意とする表現がある。
 だから、文章と絵とがそれぞれに役割を補完するのだ。
 このことは『いるの いないの』によって痛いほどの実感をさせられた。あの絵本は小説家も画家も描写を最低限のそれにとどめて、明らかに「語りすぎない」ことを意図していた。あからさまな怪異描写は避け、しかし不安を煽るような言葉と絵とを提示。これは読者を不安定な精神状態におくことを狙ったものだろう。そしてそれは成功した。
 対して本書『ちょうつがい きいきい』では、主人公の少年が数多の"おばけ"を目にする。あからさまな怪異だ。
 しかし、『ちょうつがい きいきい』で怖いのは、"おばけ"の存在そのものではない。"おばけ"が苦悶の叫び声をあげているところであり、それを耳にした少年が恐慌を来すところだ。彼のほかに感情移入する対象のない作品。彼の恐慌はそのまま伝染する。

 なぜ、"おばけ"なのか?
 なぜ、叫び声なのか?
 なぜ、"おばけ"が叫んでいるのを見て少年は恐慌を来すのか?
 そして、あの幼女は何者なのだ?
 これらの疑問に対する答えは、いつものように独り善がり。深読みとか裏読みとかいうものではなく、ただの誤読ただの曲解。まかり間違っても本気にしないように。よろしくお願い致します。

 耳障りな音、それもキイキイと金属の軋む音を叫び声と感じるのはわからないではない。甲高い音を耳にして、これを悲鳴や叫び声と聞き間違えることは、日常においてあり得る。
 蝶番やサスペンションにひそんで叫び声をあげるのは、これを前提として受け入れるとしても、勿論のこと当たり前の存在ではない。
 だから"おばけ"だ。キイキイと声を発しているのは"おばけ"に違いない。
 先に『いるの いないの』における京極夏彦の手練手管について、以下のように述べた。「見えないものは存在しない」を裏返して、「見えてしまったからには存在する」という"結論"を読者におのずから導き出させる手口は巧妙、と。
 聴いてしまったからにはそこに何かがいて、何かしら存在するならそれは姿を有するだろう。異形の姿を。
 かくして"おばけ"は姿を得た。次は、その悲痛な叫び声を少年が聴いてしまう理由だ。

 人の感覚はその機能を一定に保たない。体調や精神状態によって感じ取る情報の密度や評価に変化が生じる。これについては「ああ、そういうことあるよね」と納得してもらえることだろう。
 生活のなかで甲高い音を耳にすることは決して少なくない。キイキイと癇にさわる音の立つのを嫌って、ドアや椅子をこまめに手入れする家人がいるならあまり耳にしないだろうけど、それでも何かの拍子にキキキイッと思わず総毛立つような音が耳に飛び込んでくる。
 それを叫び声とは思わないのは感性に乏しいから?
 私の感性云々より本作の幼い主人公が攻撃的な音に脅えたものだろうか。否、彼はその幼心に日常生活における軋轢を感じていて、そのことへのストレスが彼をして生活音を脳内で"悲鳴"と変換せしめたのではないか。
 少年にとって"おばけ"の悲鳴、"おばけ"の叫びは、彼自身の悲鳴であり叫びなのではないか。
 だから、"おばけ"の叫びを聴いて少年が恐慌を来すのは当たり前なのだ。"おばけ"の叫びは少年自身の叫びに違いないなのだから。
 気になるのは、"おばけ"が悲鳴をあげている理由だ。いずれも痛みを訴えている。"おばけ"の悲鳴が少年自身のものとすると、これは彼が何かしらの痛みを感じていることを意味している。
 少年は何に傷付いているのか? 誰が彼を傷付けているのか?

 画家はこの怪談にとびっきりの昏さを与えた。屋内も野外も色味こそ鮮やかだがどこか薄暗さを感じさせるタッチで描かれていて、それがページを追うごとに加速してゆく。色鮮やかな鯨幕がたなびく街を、少年が駆け抜ける。
 軋る音は錆の色。鉄臭いのは血の匂い。きいきいと流血の予感。拍動のたびに血が噴き出て、痛い痛いと泣き叫ぶ。
 散った椿。道を外れ、横転するミニカー。勢いよくブランコをこぐ少女は"おばけ"の叫びによって紅に染まる。街行く人々の顔は揃って生気を失い、喪服の母子が死から顔を背ける。
 少年が恐慌を来しているのは、彼の経験した出来事を起因としたストレスが理由ではない。過去において誰かに傷付けられたわけではない。彼はこれから負傷するのだ。否、負傷では済まない。真っ赤な断末魔の叫びをあげる。すぐそこまで迫っている。
 少年が迷い込んだ運命の袋小路。陰鬱な一本道を画家は見事に描ききった。

 ごく近い未来に迫っている運命から逃れようと、それとは知らず懸命になって走る少年。背中を押されて危険地帯に足を踏み入れる彼を、ひとりの幼女がどこまでも追い続ける。
 彼女は少年にもその兄にも認識されてないようだ。彼女はこの時点で作中に実在するのだろうか?
 少年の家には女の子が遊ぶような玩具はなく、彼女が跨る三輪車は水色だ。色にジェンダーを求めるのは今やナンセンスといえるけれど、この三輪車は果たして幼女のものだろうか?
 彼女は生涯会うことの叶わない兄のもとに時を越えて現れたのではないか?
 幼女がウサギの耳をつかんでいたのは偶然ではない。少年がミニカーを手に家を飛び出したように、そこには明らかな暗示がある。
 すべては運命。逃れようのない悲劇。その痛みに悲鳴をあげ、警告の叫びを放つ"おばけ"。少年自身、危険を察知しないではないが、それが故に恐慌に陥る。そして、衝動のままに駆け出してしまった。
 啓示がいつも吉兆であるとは限らないのだ。

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