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マヨヒガに猫は集う

amazon:[単行本] いるの いないの (怪談えほん3)  怪談えほん『いるの いないの』を読んだ。
 本書は、岩崎書店から刊行の「怪談えほん」シリーズにおける第三弾である。文章を京極夏彦、絵を町田尚子が担当している。
 岩崎書店のサイトを訪れると「怪談えほん」のラインナップが公開されており、それによると第一弾は宮部みゆきと吉田尚令『悪い本』、第二弾は皆川博子と宇野亜喜良『マイマイとナイナイ』、そして第四弾は恒川光太郎と大畑いくの『ゆうれいのまち』となり、加門七海と軽部武宏『ちょうつがい きいきい』の第五弾と続く。
 これら五冊はいずれもA4変型判の32ページ。云うなれば、同じ条件である。読みくらべるには適しているかもしれない。定価は税込み1575円とこれまた同じときたものだ。夏と冬に台場で薄い本に血道をあげるくらいなら、「怪談えほん」を買うというのはどうだろう? 少なくとも『いるの いないの』は買うべきでしょ。
 好評につき第二期刊行の運びとなりそうで、実にめでたい。まだ決まっていないのだけれど、次のラインナップを想像しては作家名を思い浮かべてニンマリする。岩崎書店もインターネットを利用して読者と交流を持っているのだから、ネットを介して「怪談えほん」で書いて欲しい作家を募集する、というのもひとつの手だと思うけど、どうだろう? やはり素人考えか。

 なんだか売らんかな精神全開の宣伝広告みたいになってしまったけれど、この記事はステルスマーケティングじゃないよ。どこからも一銭も貰ってないよホントだよ。
 それではどんな意図があるのかというと、それは単純。たまには絵本も悪くない寧ろ良い!

amazon:[単行本] ポドロ島 (KAWADE MYSTERY) 「怪談えほん」シリーズは、絵本や児童書の岩崎書店がそのフィールドに怪奇幻想ジャンルの小説家を招き、画家とのコラボレーションを企図したものであり、この試みを成功させるために岩崎書店は監修者を立てる。
 その監修者とは、怪奇幻想ジャンルにおいて誰もが第一人者と認める編集者、東雅夫氏である。
 東雅夫氏についてはその業績の一端をこのブログで幾度か触れている。文字数800以内の「てのひら怪談」や仙台の出版社「荒蝦夷」と組んでの「みちのく怪談プロジェクト」。東日本大震災を経て必然的に派生した「ふるさと怪談トークライブ」は、2012年を迎えていよいよ盛り上がりを見せているようだ。あれから一年経とうと、忘れはしないし忘れさせはしないのだ、決して。
 このようにホラージャパネスク提唱以降の活動は本邦の怪談寄りと云える東雅夫氏だがその守備範囲は広く、ここで細かくジャンルを挙げてゆくとそれだけで記事が終わってしまうくらい。特に英国正調怪談には氏が怪奇幻想ジャンルにのめり込むきっかけとなった作品があり、それだけに思い入れは強いようだ。
 今やジャンルを代表する編集者、そして評論家となった東雅夫氏を怪奇幻想ジャンルに引きずり込んだ作品は、L・P・ハートリーの「ポドロ島」らしい。「ポドロ島」といえば本書『いるの いないの』と共通する存在がある。一見してかわいらしいアレらをその見た目のまま捉えてよいものかどうか悩むところまで共通している。これは偶然か?
 この符合についての解釈、いつもながらの独り善がりなそれは後ほど提示する。例によって例の如くの有り様なので、まかり間違っても本気にしないように。本気にして石を投げつけないようにお願いします。

amazon:[文庫] 文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)  繰り返しになるが本書の文章は京極夏彦氏が担当している。京極夏彦ファンとしては氏の語りの妙味に絵が合わさるとどのような化学変化が起きるのか、まして絵本に挑戦するとあって完成図が予想できないだけに、楽しみであり不安でもあった。
 文章と絵が喧嘩してしまわないか、あるいは喧嘩を避けて双方ともに真剣勝負には至らないのではないか、「怪談」と謳っておきながらそんなに怖くないのではないか等、不安といってもそれは絵本について不案内であることから募ったもの。なにしろ絵本から遠ざかって久しいので、不安というよりもどのような心構えでいればよいのかわからないというのが本当のところかもしれない。
 モヤモヤとした気持ちは一読して霧消した。コイツは凄いと膝を叩いた。
 前述した不安や疑念はただの杞憂にすぎなかった。

 文章と絵が喧嘩する?
 いやいやどうして喧嘩なんかするものかよ。
 文章がテンポを作り、絵が物語に奥行きを与える。絵本は一枚絵の集合ではなくて、絵と絵を文章が繋いで物語と成し、絵は文章が提示しない情報を読者に齎す。特に絵の持つ情報量の多さは、まさに「一見に如かず」といったところ。絵本は文章もさることながら絵の雄弁さこそ特筆すべきなのだな、と改めて思い至った。

 小説家も画家も真剣勝負に至らない?
 冗談ではない。表現者同士のガチガチのセメント(真剣勝負)である。
 小説家は余計な情報提示を避け、多くを語りすぎないことで情報量の多くを画家に託し、画家は小説家からの挑戦を正面から受けきった。寧ろ、小説家に向かって「この絵を背負うに足る文章かい?」と挑発しているようにも見える。
 32ページの僅かな分量だけれど、本書はプロフェッショナルとプロフェッショナルのストロングスタイルを堪能できる。

 絵本だけにそんなに怖くないのではないか?
 とんでもない!
 思っていた以上に怖い。
 何ひとつ明らかにはされてないのに、ざわざわと腹の底から沸き立つ恐怖。小説家も画家も監修者も本書を読んだ子どもにトラウマを植え付けようと企んだに違いない。見えるも見えないもいずれにしても安心できない、なんてのは呪い以外の何物でもないのだから!
 ホント、罪な大人たちだよ。

 本作はその冒頭から「おばあさんの いえで くらすことになった。」とあり、その後も少年と老婆との関係を示す文言は示されないまま。二人の関係を当たり前のように孫と祖母のそれと思い込むのは危険だ。京極夏彦はそんなことをどこにも書いていない!
 親と離れて暮らす少年の心中を慮って、「母親が出産を控えていてあまり体調が思わしくなく、父親は父親で仕事が立て込んでいて家事・育児に時間を割けないでいるので、状況が落ち着くまで祖母に預けられたのだろう」とか「両親の離婚調停が難航していて、決着するまで祖母に預けられたに違いない」とか、戸口に佇む少年の姿から「かわいそう」を拾い上げては、彼の背景について先回りしたような想像をふくらませてはいまいか? 大人たちの都合で幼い心に痛みを抱えているのでは、なんて甘っちょろく考えてないか?
 ちょっと待て。それら尤もそうな内容をそなえた裏設定も、見方を変えると疑問符が付く。
 なぜ彼は親に伴われていないのだ?
 見るからに山奥の一軒家。バスの停留所から目と鼻の先とはいえ、幼い子どもがたったひとりで訪ねるには簡単な道程ではないように思われる。そうはいっても、そこで生まれ育った者にはたいしたことないのかもしれないけど。だからひとりで来させた?
 とにかく、老婆が迎えに来ていたという描写があれば、そこには前もっての約束が取り交わされていて、そのような関係性を窺わせる二人は孫と祖母なのだろうと素直に受け取ることができる。しかし実際は、少年がバス停の近くを歩いている姿と、次には戸口で老婆と対面している絵があるばかり。そこに 「おばあさんの いえで くらすことになった。」だ。何の説明も施されてはいない。
 先ほどは「家庭環境の変化から淋しい思いを余儀なくされた少年」という、実際はどうなのかもわからない境遇をもとに彼に同情するのは早計だと述べた。ここで妄想機関車は更なる爆走を始める。次に考え付いたのは以下のようなことだ。
「キャンプもしくはハイキングに来たが、家族とはぐれてしまって、山中をさまよううちに道に出て、そのまま歩き続けて民家に辿り着いた」というもので、つまり少年は迷子なのだ。少年が胸から提げていたのは、もしもの場合にと親御さんが持たせた迷子札である。
 自分でもかなり飛躍がすぎるとの自覚はある。迷子を家にあげて、老婆は何をしようというのだ?
 親御さんに連絡をとるとでも?
 否、少年は「おばあさんの いえで くらすことになった」のだ。親のもとに帰るのならば、彼は「おばあさんの いえで くらす」なんてことにはならない。そんな記述にはならない。
 誰だ? この老婆は何者なのだ?
 老婆に注目してみると、彼女が顔を見せないことに気付く。画家は読者から老婆の顔を背けさせる。
 なんだ? どういう意図があるのだ?

 人里離れた山奥に棲み、迷い込んだ旅人を歓待する一方で、久方振りのご馳走を前に包丁を研ぐ手は陰惨ながらもどこか軽やかだ。眠りに就いた旅人の腹を裂き、生き肝を掻きだしてそれを喰らう。
 このように表現するとまるで鬼婆ではないか。鬼婆なのか?
 庭の物干しに架かっていたのは、あれは帽子だろうか? もしやベースボールキャップ? 少年が被っていた帽子は縁側に立つ彼が手に持っている。干されているのがベースボールキャップだとして、それでは誰のものだったのだろうか? 少なくとも、老婆が好んで身に着けるものではないだろう。
 持ち主は、帽子を被れなくなってしまったのだろうか?

 また妄想が暴走してしまった。

 本書を怪談たらしめているのは、そこに本当にあるのかどうか定かではない"顔"だ。その実在と非在に関して根拠に基づく断定は為されず、どう捉えるかは己の心のうちに委ねられる。
 いるもいないも、更にいうなら見えるも見えないも、それを決定し行為を為す主体の意思次第である。「いる」ならばそこに存在するだろうし、「いない」なら存在しないのだろう。「見える」ならそこに存在するか、もしかしたらそれは幻覚なのかもしれない。そして「見えない」ならきっと存在しないに違いない。理屈としては入り組んでいるというほどに複雑ではない。
 とはいえ、これはまさしく「騙りの手口」だ。存在を信じるも信じないもどう選択しようと受け手の自由であるかに思われるが、その意思は情報の発信者によって操られている。
 一度でも芽生えさせてしまった疑心は暗鬼を生ずる。努めて考えまいとしても、目はいつの間にか暗がりを見つめていて、いると思えばそこにいて、いないと信じるならどこにもいない。存在するはずがないとか合理的に考えてそんなことはあり得ないとか、そんな理屈は「見てしまうかも」との思いに容易く覆される。
 あんな所にいるわけがない。何をするでなくただじっと見ている。そんなことをして何になるというのだ?
 梁の上の同居人。まったくもって理に合わない。どうにも理解できない。でも万が一、梁の上にいるのが一般通念の埒外に棲息する存在だとするならば、そんなものは存在しないに決まっているのだけれど、もしそうなら何があってもおかしくない。不思議ある所に不思議なし。
 この時点でもう既に信じ始めている。意識に変化が生じていることに気付いていようと気付いていまいと、一旦、脳に刷り込まれた認識は消せはしない。「何かわけのわからないモノが棲みついているかもしれない」との疑念が意識のどこかしらにずっと蟠る。「脳に仕掛ける時限爆弾」とはよくいったもので、これこそ"呪い"である。
 気配を感じる。確かに誰かに見られている。そのうち息遣いまで聞こえてきて。
 こうなると、「いない」と思い込むことこそ難しい。

 観察行為がその結果に影響を及ぼす量子力学の考え方やそれを端的に示すエルヴィン・シュレーディンガーの思考実験を起点に本書を読み解こうとするなんて、妄想にしても完全にヤバいレベルのそれになってしまって、さすがに妄想機関車のブレーキレバーを引いた。あまりにも荒唐無稽。いくら絵本だからとて飛躍しすぎの想像とそれに伴う解釈は誤読でしかないだろう。
 それがわかっていて、それでもやっぱり止まらない妄想。もはや病気である。
 シュレーディンガーの思考実験では、量子力学上の「重なり合った状態」を観察によって決定する。それでは梁の上の"顔"を「見る」ことでどのような事態を招くのだろうか?

 猫だ。
 シュレーディンガーの思考実験では観察行為によってその生死を決定され、「ポドロ島」で東雅夫氏に人生の舵をきらせ、本書において語られぬまでもそこに当たり前のように「いる」。
 本書で最も不思議なのは猫の存在だ。種類も雑多な猫は、こんな山奥までどこから来たのだ?
 それはここで生まれたのか? それは「見た」からそうなってしまったのか? だから「いる」のか?
 観察の結果として猫になってしまった?

 だからベースボールキャップの少年は、帽子を必要としなくなったのか?

 監修者・東雅夫氏が自身のブログで「ポドロ島」を取り上げた際、作品を表して「分かりやすい感動とか恐怖ばかりがよしとされる昨今の嘆かわしい風潮とは対極に位置するような幽玄な魅力を湛えた」としたように、本書刊行に際して京極夏彦氏がインタビューに答えて「怖いという感情は多様なもの」と述べたように、本書を読み解くのに絶対の正解はない。否、「読み解く」ということすら正しい向き合い方ではないのかもしれない。
 ただ読む。
 怖い。
 それだけ。

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Comments:4

tenmama 2012年3月20日 15:01

本日、青山ブックセンターにてサイン本販売されましたね。著者のすっごいファンなら販売と同時に買ってしまうところ、暫く経ってこれは酷いー!と、半ば逆恨みというかヤケクソな気持ちで家人にブツブツ言ってしまいました。そんなに好きなら二冊買えばイイジャナイ?とでも言っているかのようで、ハンカチかみ締めキー!!となっております。本当に。

「いるのいないの」では手袋の箇所はもちろん、主人公のアップにも小心の心臓がドッとなりました。版が大きいから迫力ありますよね。

サテヒデオ 2012年3月22日 21:09

tenmama様
 コメントありがとうございます。
 開店五分後にはすべてのWサイン本が売り切れたとされる原画展。所用あって当日は行けなかったのですが、行ったところで手に入らなかったでしょう。
 こうなれば、Wサイン本入手の最後の手段、版元開催の「怪談えほんレビューコンテスト」に挑むしか!
 既にご存知かとは思いますが、念のために下に岩崎書店「「怪談えほんレビューコンテスト」ページのアドレスを記しておきます。
 怖い32ページを読んで読んで感想を書いて書いて後は祈るだけ!

http://www.iwasakishoten.co.jp/oshirase/news/237/

tenmama 2012年3月23日 16:11

一応忘れないうちにーと応募してみました。3冊読んでいるので、それぞれ書いてーと思ったのですが、大本命の一冊がありましたので、一応それだけにしぼって。

何名に当たるとか書いてないので非常に心元ないですが(例えば一ケタの当選者で当たる訳ないような…)何もしなけりゃそりゃ絶対当たりませんものねー

サテさんも検討を祈ります!当たりますように!!!(と言いつつ心の中の常識が「無理じゃないー?」と脱力気味につぶやいております…)

サテヒデオ 2012年3月23日 20:23

tenmama様
 一冊に絞ったのですか。ここは三冊すべてGetするつもりでなければ!
 安西先生も「あきらめたらそこで試合終了だよ」と仰っております。“炎の男”三井寿の気分で、諦めずに読んで書く書く!

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