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百年ごとの百鬼夜行

amazon:[新書] なぜ怪談は百年ごとに流行るのか (学研新書)  東雅夫『なぜ怪談は百年ごとに流行るのか』を読んだ。
 21世紀に入って怪談がいよいよ隆盛を見せている。著者は文化文政期と大正期にも怪談の流行があったことに着目。これらを怪談黄金時代と呼んで、そこにそれぞれ百年のスパンがあることから本書を執筆したようだ。
 怪談が百年ごとに黄金時代を迎えるというのは、一年を一本の蝋燭に見立てて、一話語るごとに火を吹き消す例の作法、百話を語って怪至るというアレ、百物語の仕組みではない。百年経ったからといって、超自然の理でもって怪談ブームが到来するわけではないのだ。たぶん、きっと。
 怪談がブームを迎えるには相応の理由がある。本書の著者が云いたいこととは違うかもしれないけれど、怪談初心者による無手勝流怪談講座である。
 嘘である。講座と称するのはさすがに恐れ大井の競馬場。

 本書の奥付を見ると、発行年月日は2011年8月2日とある。そのおよそ五ヶ月前に東北地方を地震と津波が襲った。いわゆる東日本大震災だ。
 震災が本書に与えた影響は小さくなく、第一章の冒頭から著者自身の"被災"を語っている。それを「ささやかな」と表現すると本人からは「とんでもない!」と反撃されそうだが、東北の地に残る生々しい傷痕と比較すると、明らかに軽微であることには違いない。それでも東雅夫氏の立ち位置を考えると、その蔵書が失われることは単に個人の経済的損失に留まらず、幻想文学のジャンル全体の損失に直結するのだろう。
 著者はこの時に感じた喪失感から、過去に同じような衝撃を覚えたことを思い出す。
 百年前の第二次怪談黄金時代、割烹旅館「翠紅亭」で催された百物語怪談会の模様を都新聞が紙面で再現、その記事を短期連載するという企画があった。百物語怪談会の開催も新聞紙上での連載も、この頃は珍しいことではなかったようだ。
 図書館を訪れた著者が、当時の新聞を記録したマイクロフィルムを閲覧して、百年の時を遡って怪談の隆盛を追体験していると、突然に連載が途絶えてしまう。何事かと次に進んでみると、そこには関東一円を襲った大地震の記事が。大正12年9月1日のことだ。
 関東大震災。
 百年の時を越えて怪談熱を吹き飛ばすその史実に、著者はしばし茫然としたそうである。

 そもそも「怪談とは何か?」を説明する際、著者は佐藤春夫が唱えたとされる「文学の極意は怪談である」を引用する。本書でもこの文言を引用して、娯楽文芸である怪談に日本文学の真髄があることを強調する。怪談に日本文学の真髄を認めるのは著者と佐藤春夫のみにあらず。本書で著者は数多くの文豪の名と業績を挙げている。一流の文学者は、こぞって怪談を蒐集し、あるいは怪談を物すことで己の文学者としての真価を問う。
 時代が、土地が、その時その場所に生きる人が、怪談を生む。時代が移り変わっても、何らの縁のない土地であっても、怪異を体験してない人でも、怪談を語り継ぐことでその命脈を保つ。
 そして本書のタイトルになっている「怪談がなぜ百年ごとに流行るのか」という命題は、"百年"という数字についてはそれを根拠に論じられないものの、なぜ流行るのかについては少なからず考察を重ねることができる。
 著者は文化文政期・大正期・現代のいずれもを「動乱への予感をひそめた繁栄と爛熟の時代」として、時代背景が共通していることを指摘する。世相が怪談を求めたところもあろうが、怪談が流行るだけのお膳立てが揃っていたことも見逃せない。社会の仕組みがそうなっていたのだ。
 歴史を振り返って、安土桃山時代に伝来した活字印刷術が読書の裾野を広げた。絵が主体の草双紙から読み物の読本へと出版物の内容に変化が生じたのが18世紀半ば。18世紀後半に文運東漸があり、江戸が文化の中心地となった。そしてそれらが文化文政時代に伝奇歴史長編小説の隆盛として花開いた。大正時代は新聞・雑誌・書籍の出版メディアの急成長があった。現代は云わずとしれたインターネット全盛である。これら出版や通信のメディアの発展が情報の流通を伴い、それによって怪談は多くの人の耳目を誘って流行へと発展したのだ。
 怪談黄金時代は出版や通信のメディアだけが作り上げたわけではなく、それぞれの時代に芸能・美術・学問の分野で天才を輩出し、これらを出版物がフォローして、広く情報の流通を促してきた。今やその役割のかなりの部分をインターネットが担って、世界規模の広がりを見せている。
 このように、情報流通の革命的発展が起きた際に、世の中は怪談黄金時代を招来するのではないだろうか。

 自分の言葉が多くの人に届くようになったとき、人々が発したいと思うもののひとつが怪談なのではないか。不思議で奇妙で不気味な怖い話、そういうものを人に伝えたいと思うのは、古今を問わず、人の欲求としてあるのかもしれない。
 その欲求は、人として有する性質から沸き起こるものなのか、怪談そのものに増殖願望があるのか、それはわからない。人を介して増殖するなんて、鈴木光司『リング』を思わせるが、これについては頷けないでもない。
 多くの文学者を魅了したように怪談には文学的真髄がある。そして怪談には、霊に対する慰撫や鎮魂の思いが込められており、また、記録としての側面がある。これらは人の心に訴えかけ、人の記憶に訴えかける。心と記憶にかたく結びついた魅力ある怪談は、聞き手のうちに「誰かに聞かせたい!」という欲求を呼び起こす。そして聞き手だった者は次に語り手へと役割を変える。語り手となった者が新たに聞き手を得る。
 情報流通のメディアは時代とともに移り変わっても、そこで語られることに人の思いは込められるのだから、世界がどのような方向に進んでゆくとも怪談が終焉することはあり得ない。ならば、百年周期で怪談黄金時代と呼ばれるほどの隆盛が到来するという本書の趣旨とはまた別に、いつの世にも怪談は存在するし、新たに生まれるし、折々にふれて語られるとは云えないだろうか。
 よくよく考えると、本邦は記紀からして怪談ではないか。正史とは別に、怪談で綴る日本史が編纂されてもおかしくない。祖霊信仰や盂蘭盆会、我々日本人は様々な場面で"怪談"を執り行ってきた。日本とはそういう国なのだ。

 東雅夫氏が第三次怪談黄金時代と呼ぶ現代、東日本大震災を経てリアルタイムで新たな怪談が生まれる今日、怪談はインターネット全盛のなか瞬く間に広がってゆく。
 本書第五章には「みちのく怪談プロジェクト」についてページを割かれている。
 2010年、柳田國男『遠野物語』刊行百周年記念の企画として立ち上がった「みちのく怪談プロジェクト」には、800字の字数制限のある怪談作品の公募企画があり、これには本書著者の東雅夫氏も関わっている。
 その「みちのく怪談コンテスト」は、一年で終えるには惜しいほどの投稿作品と参加者・関係者の熱意が寄せられて、大いに成功をおさめた。
 そして2011年、昨年に引き続いて怪談によって東北を盛り上げようと関係者が気炎をあげているさなかに東日本大震災が。さすがに今年は取りやめざるを得ないかと思いきや、震災があったからこそ怪談だ、今年こそは「みちのく怪談コンテストを開催しなければならないと、企画を立てた出版社「荒蝦夷」代表の土方正志氏。テーマは鎮魂とのこと。
 慰霊と鎮魂、記録としての怪談が今こそ求められている。だから、どんな状況にあろうと怪談の灯火を掲げていなければならない。だから土方正志氏は東雅夫氏との電話で「みちのく怪談コンテスト」の開催を宣言して、だから東雅夫氏はその意思に諸手を上げて賛同したのである。
 震災によって齎された惨状は、復興事業によって改善されつつある。"過去"へと変わりゆく"あの日"を怪談に昇華することで、震災によって負った心の傷を癒やし、時間の経過とともに風化しつつある記憶を新たにする。忘れはしない、忘れさせはしない。
 第三次怪談黄金時代はまだ半ばも至ってはいない。これからが本番である。

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