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滅私奉公

amazon:[文庫] 儚い羊たちの祝宴 (新潮文庫)  米澤穂信『儚い羊たちの祝宴』を読んだ。
 ミステリを書くうえで守らなければならないとされるものに、「ヴァン・ダインの二十則」という規則がある。「ノックスの十戒」と並んで有名ではあるが、実際にこれらを守らなければミステリを書けないというわけではない。しかし、ミステリというジャンルのあり様を捉えてはいるので、拘束性こそないけれど目を通すだけの価値はある。
 その「ヴァン・ダインの二十則」に「使用人を犯人にする勿れ」とある。これには使用人に対する、当時のミステリ実作者の意識が窺える。物語の本筋に使用人ごときが絡むのは許されない。彼らはそれぞれが家具のひとつでしかないのだ。家具が意思を持って、まして人を殺すか?
 いやはやどうにも時代遅れ。人を人とも思わない云い様だが、これは時代と社会の文脈のなかで形成された考え方だ。時代が移り変わり、社会のあり様が変われば、その時代と社会に則した考え方が生まれてルールが必要とされる。今の時代には、この時代と社会における文脈がある。使用人を描くにもそこに人間性が求められて然るべきだ。それがミステリという、甚だ人工的な意匠の物語であっても。
 これを踏まえての本書はと云うと、これが使用人大集合。そして彼らの多くは家具であり、職能そのものである。
 あれ? やっぱり使用人は使用人でしかないの? 時代と社会の文脈は?

amazon:[単行本] 別名S・S・ヴァン・ダイン: ファイロ・ヴァンスを創造した男  殺人事件の舞台となると、名家の豪邸や別荘、これらの曰く因縁のある一室や離れで起こるもの。それが古き良きミステリ、探偵小説の愛すべきパターンだった。
 浮き世離れした舞台設定も金持ちの道楽として片付けることができた。その成果として、世界中に奇妙な構造を持つ、居住性を度外視した家屋が建てられた。そしてそこには、当たり前のような顔をした使用人が住み込みで働いている。外界とは隔絶したような環境にあって主人のために立ち働く使用人の姿に、自分たちと同じ一般人の匂いを嗅いで、読者はなんとなく安心する。ここは人外魔境ではない、と。
 作品によっては確かに陰鬱な雰囲気を醸し出す使用人も現れる。屋敷にまつわる因縁を一身に引き受けたような、愛想のひとかけらも持ち合わせてない使用人が登場し、作中人物や読者の背筋を凍らせるのもひとつのパターンだ。
 使用人を幾つかのパターンに括って、そのパターン通りに動くことを求めるのならば、それはヴァン・ダインの規則と同じだ。そこに一個の人格を認めてはいない。使用人という役割を与えているのにすぎない。こういう捉え方でいるならば、使用人ごときが犯人の栄誉に浴するのを許さないだろう。身の程知らずも甚だしい、と。

 使用人も人である。この当たり前のことが当たり前に描かれるようになった。使用人は物語や事件を構成するひとつの要素、ただの記号として描かれるのではなく、血肉をそなえた人間として物語世界に生きている。
 人間であるからには感情があり、愛憎があり、打算や恩讐があって然るべき。たとえ犯罪を行ったとしても、そこには何らのおかしな点などない。使用人は犯人として設定されても構わないのだ。人なのだから。
 そしてこれは、使用人という職業にのみ与えられた栄誉ではない。ミステリにおいては犯人こそが花形であり、その栄誉は一部の金持ちに占められるのではなく、広く市井の人々に開かれるべきだ。この当たり前の犯人設定が為されるようになって久しい。

 21世紀のミステリ作家である米澤穂信は、本書収録の全作品において使用人に焦点を当てた。文章からは前時代的な世界観が窺えるも、舞台設定ははっきりと示されない。また、独白や手記のかたちで自分語りする作中人物にしても、省略や韜晦、あるいは潔いまでの黙秘によって、素性を詳らかにしない。見合いの釣書を読んでいるのではないので、作中人物のプロフィールが揃ってなければならないわけではない。それでも感情移入を阻害するだけの障壁を彼らに感じてしまう。
 特筆すべきは、使用人については誰ひとりとして背景が明らかにならないことだ。使用人を自認したり使用人の真似事をする者が語り手を務める物語も本書に収録されている。それらにおいて彼女たちは自分を基準に雇用主や自らが従事する仕事を語るが、そのこと自体がそもそもお門違いだ。自分を物差しにすることに何の意味があろう。彼女たちは真に使用人たり得なかった。資質に欠けていたり、そもそも使用人のつもりでいなかったり。だから死んだ。だから手を赤く染めなければならなかった。
 もうひとり、語り手を務める使用人がいるけれど、彼女は無駄な自分語りをしない。自分の仕事に万全を期すためにかりそめの客を招き入れる。その意味は明白だ。いざ実際にゲストをお迎えする段になって不備があってはならないと、あらかじめ実地研修を行っただけ。ミザリーとは違うのだ。彼女は余計な自分語りはしない。現時点で自分にできること、現時点では完全にこなせるとは云えないこと、これらを冷静に把握しているだけ。彼女の独白は、仕事を遂行する上で必要な備忘録なのだ。
 本書に登場する、真に使用人と呼ぶことのできる人物は、全員が妙齢の女性だが、それ以外のプロフィールが白紙のままだ。いや、妙齢とは云ったけれど、それすら確言できない。自らの事情に対して、たとえ雇用主に尋ねられてもはっきりとは答えない。自分が提供すべきはそんなことではないと言外に語っているようだ。
 雇用主に対する忠誠心はある。それ以上に自らの仕事に対する矜持がある。仕事に対する矜持というだけなら大いに共感できるけれど、彼女たちが属する世界と多くの読者が属するそれとが桁外れに違うので、異世界とも云うべきそこに居場所を持つ彼女たちもまた、自分たちとは同じ人間とは思えないのだ。
 ヴァン・ダインは、使用人に人間性を認めなかった。少なくともミステリ作品の犯人たる資格を認めなかった。
 米澤穂信は、謎とその解明の面白さを追求するあまり、使用人が人である必要性を認めていない。彼女たちは職能だけを取り上げても立派な個性だ。もちろん、ミステリの犯人を堂々と務められる。

 金持ちの度外れた金銭感覚を表すエピソードを聞くにつけ、同じ地上に生きていながらも違う世界の価値観を示されて、にわかには理解しがたくもあるけれど、彼らに雇われている使用人もまた一般常識とは隔絶した価値観の持ち主なのだと思う。彼らの行動原理は、使用人としての職分が大きく影響するのだろう。たとえ結果として犯罪行為に手を染めることになろうとも、使用人としての職務を果たすことになるなら、それを厭わない。少なくとも、本書に登場する使用人たちは犯罪を犯罪と認識しているかさえ疑わしい。仕事上の雑事として、淡々とこなしているように思われる。
 あるいはこれが使用人のあるべき姿なのかもしれない。時代と社会の文脈に関係なく、真の使用人はその職能こそが存在意義なのかもしれない。平等主義を無批判に受け入れていては、その本質は見極められないのかもしれない。私には理解も実感もできない。ただの妄想なのかもしれない。
 使用人から人間性を削ぎ落としてみせた『儚い羊たちの祝宴』は、だからとてつもない問題作なのだ。作中人物の背景が描かれてないので感情移入が難しいなんてレベルではない。それを明かすことは職務を遂行するにあたり不必要なので、むしろ作中の使用人こそが自ら沈黙を守っている。彼女たちに対する記述が少ないのは、その沈黙を忠実に描写しているだけなのだ。もし、本書の内容がこのようなものであるならば、作者は戦後教育が謳った平等主義を鼻で笑っている!
 本書はミステリという枠組みを超えて、挑発的で刺激的な、とてつもない一冊なのである。

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