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鬼ごっこ

amazon:[DVD] 鬼神伝 「鬼神伝」を観た。
 監督は川崎博嗣、製作会社はスタジオぴえろ。劇場用長編映画ということでアニメーションの完成度は高い。これについては観る価値がある。
 原作は高田崇史による同名小説。作者は日本史において通説とされているものに新たな解釈を提示する、いわゆる歴史ミステリの書き手である。
 私はこの作者の良い読者ではないが、私の友人で岐阜の山奥に逼塞する男は作者の大ファンで、「高田崇史は読まなければならない作家のひとりだ!」と熱弁をふるう。「QED」は必読だ「カンナ」を読めと、口角泡を飛ばす熱さは愛すべきものだけれど、聞き手である私の反応が芳しくないので、この作家については最近は静かな友人なのだ。私の反応が「打てば響く」というほど良くないのは、私が高田崇史作品に瑕疵を見出してしまうからだ。友よ、そういうわけだよ。申し訳ない。
 日本史の蘊蓄や作者の提示する解釈は面白い。しかし、肝心の小説が受け入れられない。メロドラマというか何というか、とにかく私の読書志向に合わないのだ。メロドラマの文法自体を否定しないけど、頭に「安っぽい」と付くとなると話は別だ。
 本作について原作小説は読んでない。原作小説の作者名を知り、おおよそのあらすじを知って「なるほど、高田崇史らしいなあ」と思った。そこに作品への評価を下す要素は何もなく、なんだかんだで劇場用アニメになったくらいなのだからと、むしろ面白いに違いないと期待したのだったが......。

amazon:[新書] 鬼神伝 (講談社ノベルス)  主人公の少年は、京都に住む気の弱い中学生。彼の名は天童純といい、その体には細長い形の痣がある。学校帰りの純は影のように黒い異形に追いかけられて、とある寺院に逃げ込む。彼はそこでひとりの僧侶と出会い、導かれるまま本堂の奥へと進む。
 純が目を覚ますと、そこは平安京だった。
 純をこの時代に招いた僧侶、源雲僧正が云うには、天童純はオロチの力を自在に操れる一族の末裔とのこと。なぜ純少年がこの時代に招かれたのかと云うと、鬼の襲撃から都を護るためである、と。その身にそなわった力でオロチを操り、都に害なす鬼どもを滅ぼしてほしい。源雲をはじめ貴族たちに懇願される純だが、突然のことで判断を下す余裕もない。
 その夜、都を鬼が襲う。親しくなった源頼光の危機に力を発現する純。すると、封印されていたオロチの力が一部解き放たれ、純を背に乗せて空高く飛翔する!
 オロチに乗った純が辿り着いたのは鬼の棲む里。純が驚いたことに、鬼は人外の異形ではなかった。源雲たち都の人間が鬼と呼んでいるのは、平安京建設のために長年住んでいた土地を逐われた部族だ。都の建設のために樹木は伐採され、その影響が出始めていることに、彼らは危惧を抱いている。
 何が悪くてどちらが間違っていると判断できないまま、その力を求められて、純は迷う。僕はどうすればいいんだ?

 強大な力を持つ者は、それについて責任を伴う。
 天童純は勾玉一族の末裔であり、オロチを操ることのできる唯一の存在だ。勾玉の一族とは素戔嗚尊を始祖としている。そして、彼ら一族が操るオロチとは"大和の雄龍霊"である。
 オロチ退治とは治水の物語であり、封印されているオロチを解放するとは洪水を引き起こすことにほかならない。都の建設に必要だからと樹木を伐採することで、山は保水力を失う。その状態で大雨に見舞われたら、地滑りが起こるだろう。洪水へ向かって一直線だ。
 治世の一端は治水である。素戔嗚尊はオロチを慰撫しその力を封印することで治水を成し遂げた。勾玉一族の力とはオロチを解放するのではなく、オロチを操ってこれを治めることに真髄がある。つまりオロチ退治とは、治水の読み替えなのだ。
 しかし、純の力を求める者たちは、オロチを敵対勢力への攻撃に使うと云う。科学だろうと方術だろうとそれ自体に正しいも悪いもない。それを使う者がどのように使うかが問題なのだ。強大な力を持つ者は、それについて責任を伴う、である。
 本作の主人公、天童純が優柔不断で周りに流されてばかりなのは、彼の決断にはとてつもない責任が伴うからだ。彼が一方の理屈のみを聞き入れた場合、少なくとももう一方の共同体は壊滅していたはずだ。だから天童純は傍観者でなければならなかった。そして、価値観の定まっていない少年でなければならなかった。偏見や差別意識に凝り固まった人物であってはならなかったのだ。

 主人公は典型的な巻き込まれ型。あくまで公正であろうとする姿勢は美徳だけれど、受け身の姿勢のままでは事態を乗り切れるはずもない。ピンチに陥ると、好都合にも救いの手が伸びる。主人公がグダグダと悩んでいるうちに事態は進み、決断をしたらしたで暴力によって排除される。その意思が正義に基づいたものだとしても、力無き正義はそれが為されないという一点で、ただの題目に変わる。
 天童純の情けなさに苛々して、「こんなモン観てられるかボケぇ!」と観るのを止めた向きもいることだろう。いや、純だけでなく水葉や頼光の言動に苛々したはずだ。これには共感できる。彼らの若さ故の青さに中てられちゃう。
 原作者の瑕疵、あまりに安っぽいメロドラマが本作は過剰だと思ったら、『鬼神伝』って講談社のミステリーランドの一冊じゃないか。ならば"子どもっぽい"のは仕方ない。そもそもが子ども向けなのだから。こう書くと失礼だな。

 講談社ミステリーランドとは、講談社の名物編集者であり新本格ミステリを牽引した名伯楽のひとり、宇山日出臣氏の晩年の企画である。そこには、子どもたちに良書を届ける、という企画意図がある。子どもたちに宝物を贈るという気持ちがこの企画の根底にある。
 高田崇史『鬼神伝 鬼の書』は2004年にミステリーランドの一冊として刊行された。ターゲットはもちろん子ども。だから『鬼神伝 鬼の書』を原作に持つ本作も、子どもに向けられた作品なのだ。子どもを対象にした作品だからと云って、子ども騙しが通用するわけではないのだけれども。
 高田崇史作品の持ち味である(と私は信じている)日本史の蘊蓄や解釈が、本作では失われているのが残念だ。そしてこれは原作小説からしてそうなのかもしれないが、明確な敵が用意されていることも残念。対立する考え方のどちらを選ぶというのではなく、さりとて第三の選択肢をはっきりと提示するでなく、ひとりの男の野心を潰すことに目的が変わってしまった。
 貴族と鬼、話し合いで解決する道を模索する面をもっとはっきりと描くべきだった。この時代における第三者である天童純を仲介役にして、貴族と鬼との間で話し合いを持つべきだった。少なくとも話し合いで解決させようとする動きがあれば、たとえそれが阻まれたとしても「子どもながらも主人公はやるべきことをやったな」と受け止められるし、その後の展開にも納得できただろう。それがないままに戦いが始まる。云いたいことも口にせず、友人を手駒に使って要らなくなると捨て去る悪党に対して、ただ怒りを募らせる純。オロチを完全に目覚めさせてこれを操り、悪党の独善的な野心を木っ端微塵に打ち砕いた。オロチの力によって大団円を迎えたのだが、これは結果論でしかない。
 鬼たちが"まつろわぬ者"であるだけに平和的解決の結末を夢みてしまう。天童純に体制側とまつろわぬ者との架け橋になってもらいたかった。個人的な希望なんだけど。
 わかりやすい悪党を用意したという点で、本作は子ども向けの評価は免れない。それが醜いとか汚いとかは抜きにして、大人の世界に子どもの理屈をブチ込むには、その扱いは難しいということだ。下手をすると幼稚になってしまう。

 以上のようなことで、あまりお勧めできないのだけど、こういう日本史に興味を抱かせる作品は貴重なので、多くの少年少女に本作を観てほしいと思う。大人の観賞に堪えられないものが子どもにウケるかどうかわからないけど。

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