- 2011年10月11日 17:17
2011年10月10日、体育の日。運動会が催されているであろう巷を横目に映画を観る。つくづくインドア派。この日、有楽町はよみうりホールで試写会が催され、「カウボーイ&エイリアン」を観た。
ダニエル・クレイグが主演し、ハリソン・フォードとオリヴィア・ワイルドが脇を固める。主演作品をすぐに挙げられるダニエル・クレイグとハリソン・フォードはともかく、オリヴィア・ワイルドって誰だ? 謎はすぐに解けた。入場時に受け取ったチラシには名前の下に「トロン:レガシー」とあったが、かの話題作を観てない私にとっては「Dr.HOUSE」のサーティーンことレミー・ハドリーだ。ハンチントン病の彼女だよ。
製作総指揮は"UFO大好き"スティーヴン・スピルバーグ、監督は「アイアンマン」シリーズのジョン・ファヴロー。ロン・ハワードが製作に名を連ねている。キャスト、スタッフともに豪華な顔ぶれを揃えた本作。その内容はと云うと度重なる宣伝攻勢に遭っているので、西部劇と異星人の第三種接近遭遇と云うかガチガチの戦闘を描いたものであることを知っていた。俄然興味がわく。
1873年、アリゾナ。ライト兄弟の有人飛行実験の成功まで三十年の時間を待たなければならない地球人類と、異星探検を為し得る科学力とそれに見合った軍備のエイリアン。両者が戦って競り合うことなどあり得ないなのだが、これをどうにかしなければ物語はすぐに幕を下ろすことになる。科学力や軍備に歴然とした差のあるカウボーイとエイリアンで、いったいどのような戦闘が繰り広げられるのか、興味はその一点だ。
腹に傷を負い、左手首に見知らぬ腕輪を装着する男。なぜこんな所に行き倒れているのか、そもそも自分が誰なのかもわからず、自分に銃口を向けた三人組に反撃して殺す。何がどうなっているのか知らないが、まず傷の手当てだ。
町に行き着いた男は牧師から手当てを受ける。ちょっとした騒動にかかわった男は、その後に保安官に逮捕される。男の顔が手配書にあったからだ。賞金首の名はジェイク・ロネガン、札付きの悪党だ。
ジェイクと彼が軽くのしたパーシー・ダラーハイドとが連邦保安官に引き渡されることになり、馬車で運ばれるところに町の有力者が現れる。ウッドロー・ダラーハイド、金脈の尽きた鉱山町を畜産で養っている。かつて軍隊で大佐の地位にあった男だ。そしてパーシーの父親だ。ダラーハイドは息子を取り返すのと、以前に自分の金貨を盗っ人から金貨を取り戻すために、一党を引き連れて現れたのだ。盗っ人はジェイク・ロネガン。しかし、今のジェイクはそのことをまったく覚えていない。
保安官との押し問答のさなか、夜空に光る物体が出現する。その物体の圧倒的な火力を前に居合わせた者が右往左往するなか、ジェイクの腕輪が光って、そして空飛ぶ物体と同じ攻撃を放つ!
いかに煽ろうとも無理筋は無理筋だ。どう繕ってもこの大風呂敷には穴があいている。カウボーイとエイリアンが戦ってカウボーイが勝つ道理がない。というわけで道理は引っ込む。
無理を通すためにいろいろとエクスキューズが必要になり、それだけでも枷になるのにエピソードを盛り込みすぎ。回り道が多くて苛々する。西部劇はもっとシンプルに一本道で作るべき。敵が人質を取った。人質救出のために反目していた二人が手を組む。かつて裏切った仲間や、敵味方にわかれて戦った相手を仲間にして、一致団結して目的を果たす。そして酒場での乱闘と一騎打ちがあってこその西部劇だ。いわゆる"インディアン"が出てきて活躍したのは合格点。これらの要素のほかに、エイリアンという厄介な代物を背負っているのだから、記憶喪失なんてものは邪魔なだけ。これ以上の足踏みは勘弁だ。ちっとも前に進まない。
カウボーイと戦って圧勝しないだけの理由を背負わされたエイリアンも気の毒だが、次々に繰り出されるご都合主義に目を瞑らなければならない観客も気の毒だ。作中には胸躍る場面もあって、それだけに瑕疵と呼ぶには大きすぎる欠点が目立つ。残念でならない。
腐すばかりは嫌なので評価できる点を挙げると、これはハリソン・フォードに尽きる。彼が演じるダラーハイドはいろいろと背負うものが多すぎて、それらに圧し潰されないように彼が縋る杖は、これまで生きてきたことの経験則の裏打ちがあって、この年齢まで生きてきたからには価値観の変化など簡単に受け入れられない。ルールは自分が決める。周りはそのルールに従う。これこそが何もかもうまくゆく唯一の方法だ。そういうふうに生きてきた。
自分のやり方に拘る頑迷さはあれど底意地が悪いわけではなく、自ら信じる方法で人を思いやることのできる男だ。つまりは頑固で不器用で口下手なアメリカのクソ親父だ。かつて主演ばかり務めてきたハリソン・フォードだが、これからは脇役として作品を引き締めてもらいたい。様々なジャンルの作品に出演してきただけあって、引き出しが多い。これは魅力だ。
本作の主人公、ジェイク・ロネガンは記憶を取り戻すことで本来の自分へと立ち返るだけだ。それはそれでドラマではあるが、ウッドロー・ダラーハイドは従来の自分とは別の価値観に目覚める。この二つを比較すると、主人公としてはダラーハイドのほうが相応しいだろう。老いたりと云えども人は成長するのだ。ただしダラーハイドが主人公になるには、最後に町を去らなければならない。これからも町を背負ってゆかねばならない彼にそれはできない。後進を育てる仕事が待っている。
西部劇のヒーローは、「来て、去る」でなければならない。となると、ジェイク・ロネガンが主人公というのは当然なのかもしれない。馬の背に揺られて去りゆく姿というのは、文句なしにかっこいいのだから!

