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愛という名の病

amazon:[文庫] 愛の続き (新潮文庫)  イアン・マキューアン『愛の続き』を読んだ。
 イアン・マキューアンの作品を読むのは本書がはじめてである。その著作『贖罪』を映画化した「つぐない」は観た。「つぐない」に物語の持つ"騙り"の本質を見出して、このブログに記事を書いた。私が「つぐない」で注目したことが原作小説を正しく反映するものであるならば、イアン・マキューアンという作家は端倪すべからざる存在だ。
 シアーシャ・ローナンを主演と呼びたい「つぐない」では、タイプライターのあたかも言葉を紡ぐかのような打刻音が、文字通り作品の通底音となっていた。そこでは過去の事実に対する意味付けや"物語"の成立の為の事実の捏造が施され、最終的にひとりの小説家の悔恨に満ちた人生の最期に向けて、ささやかではあるけれど確かな希望を与えていた。希望を求めるのも与えるのも小説家本人なのだけれど。
 物語における描写が事実に基づいているか否かは、物語の作法において必ずしも問われなければならないものではない。このことを踏まえなければ真の姿が見えてこない物語がある。私にとっての「つぐない」がまさにそうであった。だから長々と自分の推理を語って悦に入るという、ホントに恥知らずなことをした。面目ない。
 懲りてないけど。

amazon:[Blu-ray] つぐない  本書を読む前に「つぐない」観賞体験を経たことで、私は物語の語り手であるジョー・ローズに疑惑の目を向けた。彼はどこまで本当のことを語っているのだろうか、と。これはやむを得ないことではある。登場人物のひとり、ジョーに最も近しいクラリッサですら彼の正気を疑ったくらいなのだから。意識的にか無意識の為せるものかはともかく、私がジョーの語りに"騙り"を見出そうとしたのは、私のこれまでの読書遍歴からすれば当然の読み方である。なにしろミステリ好きなものだから、何かというとすぐに謎や伏線を見出そうとしてしまう。そんなものは用意されていないとしても、「これはなにかミステリ的仕掛けがあるに違いない!」と勘繰る。ここまでくると、もはやノイローゼである。
 ジョー・ローズは、気球の事故とジョン・ローガンの墜落死の現場に居合わせたジェッド・パリーから、その夜に電話で愛を告げられる。電撃的な愛の告白からはじまるパリーの付きまといや手紙攻勢はジョーの日常生活に緊張を強いて、やがてジョーとクラリッサとの関係を破綻へと導いてゆく。些細な事柄からジョーが連想したのはド・クレランボー症候群だ。まさに天啓の如く病名が脳裏に降臨し、このことによって彼は自分の憂慮の妥当性をますます強く確認する。
 二人の人間がいればそこに関係性が生まれる。愛憎だの上下だのといったものは幻想だ。これらは自分たちがかけた呪いにすぎない。二人の人間がいるならば、そこにある事実は単純だ。それは「人間が二人いる」である。
 事実に意味付けせずにいられないのが人間だ。これは人間関係に限ったことではない。曰く云い難い事象までも言語化しようと躍起になる。本書の語り手が科学ジャーナリストであることは、それこそ大いに意味があるのだ。ジョーはその科学的知識と論理的思考をもってパリーの危険性を看破する。パリーのジョーに対する言動にはド・クレランボー症候群の症状が顕著である。しかし、パリーの言動についてジョーが語る事柄を事実ではないと一度でも疑ってしまえば、二人の関係性はすぐさま反転して映る。そもそも耳慣れないド・クレランボー症候群からしてその存在が疑わしい。ジョーが自分の主張を補強するために捏造した病気ではないのか?
 そこまで云ってしまったら、それこそノイローゼだ。ド・クレランボー症候群は実在の病気として捉えて、それではパリーは本当にド・クレランボー症候群の患者なのか?

 ジョーのまなざしから二人の関係がはじまったと主張するパリーと、電話でのパリーの愛の告白からはじまったとするジョーの言葉。かたや自らの信仰を拠り所にして、かたや科学的知識を論拠にして、それぞれに相手の存在を規定する。自分と相手との世界の合一を果たせない二人は、ついに暴力に訴えて世界の平定を図る。二発の銃弾が放たれ、二人の男が傷を負う。
 世界を計る尺度は自分のうちにしか存在しない。パリーは神に、ジョーは科学的論理に、それぞれ仮託している。宗教も科学も世界についての説明の役割を果たしていることを考えれば、パリーとジョーの二人は物語が自らを語らしめるために彼らの登場を要請したのだということがわかる。慎重にならねばならないのは、宗教にしても科学にしても正しく使われているかどうか、である。恣意的に誤用されれば、世界は誤った認識で満ちてしまう。
 パリーがジョーに対して感じる愛は本物なのか? パリーをド・クレランボー症候群と見做したジョーの考察は適切なのか?
 ここで念頭に置かねばならないのは、物語の語り手はジョー・ローズだということだ。そもそも、彼は信用できる証言者なのだろうか?

 イアン・マキューアンの手管は並大抵のものではない。本書におけるド・クレランボー症候群は、登場人物の行動原理と行動様式を説明し、同時にミスディレクションとなっている。この巧緻な罠に私はまんまとひっかかった。脱帽である。
 ジョーとパリーの関係についてその顛末をここでは語らないが、本書が描いているものが愛であることは断言する。人は他者との間に愛を見出し、愛を信じ、愛を疑い見失い、愛に迷う。しかし、最後には愛へと還ってゆく。壊れやすく扱いの難しいものではあるけれども、愛の素晴らしさは人の獲得した大いなる意味なのだ。この結論へと導くために愛を危うくする作者の作戦は見事に当たった。さあ、拍手だ。

 ミステリ好きもそうでない向きも、特に「つぐない」を観たならば本書を手に取ることを薦める。入手するのは些か難しいかもしれないけれど、それだけの価値はある。きっと、否、絶対に面白い。

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