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歌うタイプライター

amazon:[DVD] つぐない  移動サーカスのテントを次々と覘いてゆくような海辺の光景。引き揚げ船の到着を待つ兵士たち。銃殺される馬、あん馬をする兵士。観覧車は回り、兵士たちは賛美歌を合唱する。長回しが効果をあげるなか、ダンケルクの情景は幻想めいて......。これは本当に現実なのだろうか?
 2011年9月現在公開中の「ハンナ」で主演をしているシアーシャ・ローナンの、十三歳の頃の透明感に驚いた。彼女の少女時代を切り抜いてフィルムに焼き付けたと云う一事をもって、この作品は絶対の価値を有する。ジェームズ・マカヴォイの好演もキーラ・ナイトレイの薄い胸もシアーシャ・ローナンの前に霞む。
 ジョー・ライト監督作品、「つぐない」を観た。
 本作の原作小説、イアン・マキューアン『贖罪』を読んでいない。『贖罪』を読みさえすれば了解できる事実関係をつかまずに本作を語ることは、作品を正しく理解していないことを露呈するのではないか? 一抹の不安を覚えつつ、あくまで映画化作品を評価するのだから123分間に現れた事象から物語を再構成すればよい、とも思う。そのうえで私は評価する。この素晴らしい"物語"を。
 死を控えた女性作家が通算21冊目にして最後の作品を書き上げた。小説のタイトルは『つぐない』。これは自伝的要素の強い作品で、作家自身を含め、多くの関係者が実名で登場するという。本作はその作家、ブライオニー・タリスの『つぐない』の内容をなぞっているようだ。そして、この点こそが本作を語るうえで重要になる。
 作中に示された客観的事実はとても少ない。作中に現れる事象のどこまでが事実でどこからがブライオニー・タリスの創作なのか、これを探る為の手掛かりが厳密にはまるでないことに気付く。

 1935年、十三歳のブライオニーは既に物語に遊ぶ少女だった。創作意欲の豊かな彼女はタイプライターに向かって物語を紡ぐ。物語の冒頭から世界をタイプの音が支配する。この時点で、これから始まるのは作中作なのではないかと考えられる。物語はタイプライターの立てる音と共に進行してゆく。タイプライターが物語世界を構築してゆく。
 物語を紡ぐタイプの音は、おかしな表現になるけれど「タイプライターでのみ奏でられるのではない」。それらはピアノの音であり、ライターをカチャカチャ弄ぶ音であり、路面を踏む靴音であり、照明が点いてゆく音であり、通りを行く馬の蹄の音であり......。細かくリズムを刻む音は、あるいは生を刻む拍動を意味しているのかもしれない。いくつかの例を挙げたように、本作はリズム隊が頑張っている。ルロイ・アンダーソン作曲のその名も「タイプライター」という楽曲があるが、本作の劇伴はそれに引けを取らない。特徴的で、明確な意思を感じる。
 タイプライターの音が示しているのは、本作の内容の大部分がブライオニー・タリスが物した小説だということである。自伝的要素に満ちていようと、実在した人物が実名で登場しようと、これは人の創作物だ。そこには嘘があって然るべきである。
 事実を羅列したところで小説にはならないし、作家本人の内なる要請によって書かれた告白であっても脚色は為される。ましてブライオニーは十代の頃から、自らの過ちとそれが招いた悲劇をテーマに創作してきたのだ。強迫観念的に取り憑かれた罪の意識を浄化し、自らの迷える魂を救済する為ならば、事実の改変すら手を染めるだろう。いや、後悔を抱えて老境に到り、思考力を失いつつあるブライオニー・タリスの目的はひとつだけかもしれない。死を前に用意しておかなければならないことがあったのだ。そうして完成させたのが『つぐない』である。
 本作を観る限りでは、その内容がブライオニー・タリスの創作であると明示されない。女性作家の少女時代から成長してゆく様と、彼女の姉と庭師との悲恋が描かれているにすぎない。それでも、それらが事実ではなく創作であると捉える以上は、論理的にこれを証明してみせよう。よって、ここからはミステリ作品に対するアプローチで本作を読み解くことにする。例によって、いつもの病気である。
 ミステリ的アプローチをすることは、本作の内容についてその多くを細かな点まで言及するということだ。事実関係を伏せて考察を進められない。ネタを割ることも辞さない。
 忠告しよう。未だ「つぐない」を観ていないならば、ここから先へは進まないことだ。本作を先入観無しに愉しむにはこの記事を読まずに先ず観る!

amazon:[CD] トランペット吹きの休日~ルロイ・アンダーソン・ベスト  ここで再度の忠告。
 今回の記事は長い。これまでも文字数ばかり嵩む記事を書いてきた。その私が今回の分量に驚いている。そもそもここまでが長い。長すぎる。しかも文字ばかりだ。黒すぎる。黒地獄を避けるためにルロイ・アンダーソンのCDのジャケット画像を挿し込んでしまったよ。後悔はしていない。
 面倒臭がりのアナタ、悪いことは云わない。ここで引き返すのが賢い人間の行動と云うものだ。さあ、「戻る」をクリックだ!

 あの日、ロビーが連行された日に、実際は何があったのだろうか?
 ローラに対する暴行未遂事件を振り返るとき、ロビーの犯行と確定する決め手は全てブライオニーが繰り出していることに気付く。目撃証言も物的証拠も彼女が進んで提出している。
 これはどういうことか?
 事件被害者であるローラからは目撃証言がとれないにかかわらず、ブライオニーは乏しい光の中に一瞬見た顔をロビーと特定している。ここで興味深いのは、加害者の一番近くにいたローラが口を閉ざしている点だ。ブライオニーは「信用できない」としていた赤毛の人間にロビーの犯行だと供述を求めた。そして気付いたろうか、目撃証言を供述するブライオニーの背後にタイプの音が響くのを。これは彼女の証言が創作、つまり偽証であることを意味してはいないか?
 暴行未遂事件から五年後、事件の晩に屋敷に居合わせたポール・マーシャルがローラと結婚する。これを契機にブライオニーはかつての目撃証言を撤回する。この後、ブライオニーが彼女の真実を姉やロビーに告げるところは、『つぐない』の作者によって創作であると断言された。そのこと自体は今ここで掘り下げない。重要なのは暴行事件におけるブライオニーの目撃証言は当てにならないことが、彼女自身によって証明されたことだ。
 次に目を向けるべきは物的証拠だ。ロビーがセシーリアに宛てて綴ったとされる、破廉恥極まる内容の手紙に焦点を当てよう。手紙自体はローラの暴行とは無関係だが、ロビーが変態色情狂であることを示す重要な証拠だ。変態色情狂だからこそ肉欲の命じるままにローラを襲ったのだと云う理屈が成り立ち、手紙は暴行の傍証として採用された。
 セシーリア宛ての手紙は、たしかに破廉恥にして熱情に満ちる内容だが、これは誰の手になるものだろうか?
 あの文面はロビーの肉筆ではない。タイプされたものだ。タイプライターで手紙を書くこと自体はおかしくない。問題は、手紙にロビーの自筆によるサインが無い、と云う事実だ。ブライオニーの創作では件の手紙はロビーが戯れに綴ったものであり、本当ならセシーリアに届く筈はなかった。だからロビーはサインをしなかったとされる。古き良き時代のミステリ作品においてタイプライターの特定は、フォントに特徴があるとか文字の一部が欠けているとか、こういった特徴ある印字に頼っていた。本作において疑惑の手紙は、これを打ったタイプライターは特定されないまま、それでもロビーが綴ったものと認定された。根拠としては甚だしく弱いと云わざるを得ない。
 よしんばあの手紙をロビーが綴ったとして、それが事実ならロビーとセシーリアとの関係は上辺のそれとはまるで違うものとなる。ブライオニーがロビーからの手紙を渡された際に見せたセシーリアの動揺も、食事の席でブライオニーが双子の置手紙を持ち込んだ際のセシーリアの動揺も、ロビーとの秘すべき関係を明かされることに対する恐れと理解できる。双子の置手紙を読み上げるブライオニーとは別に顔を見合わせるロビーとセシーリアの表情から考えると、これはこれであり得る。
 さて、疑惑ばかりが残る手紙が三通。ロビーがタイプした手紙。ペンでしたためた手紙。双子の置手紙(彼らが芝居について心残りがあるように見えただろうか?)。さて、これらはいったい誰が綴ったものだろう?
 ロビーを犯人と名指しする目撃証言と彼の変態性向を裏付ける物的証拠とが、どちらも証拠能力に乏しいことは、ここまでの考察で明らかになったと思う。ここまでの考察から、証拠の捏造があった可能性を否定できない。しかし、ここでもっと大きな問題が浮上する。
 暴行未遂事件は本当にあったのか?

 ローラが何者かに襲われた事件は、ブライオニーが現場を通り掛かったことで未遂に終わっている。ローラから襲われたと申告があり、ブライオニーから目撃証言も得られた。着衣の乱れもある。良家の子女が他人を陥れる為に嘘を吐いていると誰が疑おうか。だから事件として扱われた。
 この事件、ブライオニーとローラの狂言と考えると腑に落ちるのだ。少なくとも、暴行という実態ではなかったと考えるべきだ。
 ブライオニーが姉とロビーの性行為を目撃した晩に双子の失踪騒動が起きる。家人が捜索に奔走する間に、彼らが捜索を続ける地域を選んで暴行を実行しようと考える者が現れ、その男の前をローラが通りかかってこれの犠牲となり、しかし暴行が為されんとする瞬間にその現場をブライオニーが押さえる。
 偶然がここまで重なるから悲劇なのか。否、ここまでの偶然が重なると、むしろ何らかの明確な作意を感じざるを得ない。
 両親の離婚騒動の余波を受けてローラと双子の弟たちはタリス家に身を寄せていた。それにあたって親からきつく云われたことがある。彼女たちはブライオニーの命令には逆らってはいけない。生意気盛りの双子はともかく、ローラは自分たちの立場を弁えている。また、ブライオニーはローラをこう諭したのかもしれない。「セシーリアが近い将来にその恋愛に苦しむだろうことは必定。階級差のある恋愛が成就する筈もない。今のうちに別れさせることが、ひいてはセシーリアの幸福に繋がる」と。
 勿論、証拠は無い。ブライオニーとローラとの間で交わされた内緒話は、その内容が作中では明らかになっていない。まあ、これは自分でも無理筋だと思う。しかし、このときのガールズトークが後の展開に影響しているのは確かである。この点についてはここまでとするが、疑惑が残ることだけは記憶に留めておいてほしい。
 被害者と目撃証言に傍証の物的証拠、全てが周到に用意されたのではないか? ローラ暴行未遂事件は本当に起こったのだろうか?

 ここからは客観的事実を見つけられないまま、私の想像をただただ述べさせてもらう。しかしアレだな、客観的事実の無いままに想像を逞しくして物語るならば、これはまるでブライオニー・タリスそのものだな。
 後にブライオニーはローラを襲ったのはポールであると断じる。そして、暴行ではなく合意のもとの行為であると匂わせている。これも怪しい。
 ローラ暴行未遂事件におけるブライオニーの真実は、彼女がローラとポールの婚約を知って彼らの結婚式に立会ったなかで、卒然と脳裏に描き出したものだ。もちろん、ここでもタイプライターが彼女に閃きを与えている。
 この場面、少なくともポールとローラとの婚姻は事実だろう。老いたブライオニーはテレビのインタビュー番組で、『つぐない』には実在の人物を実名をあげて登場させていると語っている。情報を捏造してきたブライオニーであっても、物語世界において絶対の事実とされる情報を湾曲することまではすまい。ブライオニーが壮大な嘘で塗り固めた堤も事実の一穴から決壊する。老練な作家はこのことを弁えているだろう。後になって事実関係を調べられて、すぐに嘘と判明することを書くほどには愚かではないだろう。だから、ロビーが1940年6月1日に死んだ事実を明かした。セシーリアの死も。これらのことからも、ポールとローラの婚姻は事実として考察を進めるべきだ。
 ポールとローラの結婚が事実として、次に考えるべきはブライオニーの心情だ。結婚式に立ち会った彼女はそこでロビーとセシーリアを心に思い浮かべただろう。報われなかったロビーと姉の愛、そして目の前に実現する成功者の幸せな結婚。大きな違いを見せる二組の恋人。このことがブライオニーにとって許せなかったのだろう。まして新郎は、不幸が蔓延する時代に軍需景気の恩恵に浴している。
 だから、ブライオニーは幸せな新婚夫婦を貶めようと考えた。つまり、ポールとローラを出逢ったその日に婚前交渉に臨むような恥知らずとして描き、その名を自著に登場させた。18歳のブライオニーが許さないのみならず、老境に到ったブライオニーも未だに許せないのだ。あるいはあの日のポールとローラの屋外における性交渉を、ブライオニーは既に事実としてその脳に刻んでいるのかもしれない。ここで早合点してはいけない。結婚式に参列したブライオニーの脳裏にタイプライターの音とともによみがえったのは、ローラを襲ったのがロビーであると証言した自分の姿だ。このこと自体は事実である。証言内容が偽りなのだ。タイプライターが示しているのはあの証言の内容だ。ローラを暴行しようとしたのはロビーであると名指ししたことだ。ポールとローラの結婚式でブライオニーが卒然と脳裏に思い描いたのは、やはりあの夜の真相なのだろう。懐中電灯が照らし出した二人の姿。あれは暴行でも、ましてロビーが関係していたわけでもない。
 こうして、ローラ暴行未遂事件は事件そのものが消滅した。しかしこれ自体は少女時代の愚行として語られるものだ。本当にあったことであってもなんらおかしくない。ここまでの考察は、本作の内容がそもそもブライオニー・タリスの創作であることを証明するものではない。ブライオニーを生涯にわたって苦しめたのは、たとえようもないほどに大きい喪失感だ。その後悔だ。失ったものを取り返すために彼女は『つぐない』を書かなければならなかった。その理由こそが、本作が『つぐない』の内容であることを物語るのだ。

 多くを犠牲にして成立した嘘。そのきっかけとなったのは噴水の前の二人、図書室の二人。少女の目撃した二つの光景が彼女を愚行に走らせた。
 それは嫉妬だったのだろう。
 敬愛する姉を奪うロビーに向けられたものか?
 初恋の君を奪ったセシーリアに向けられたものか?
 自分の与り知らぬところで大人の世界に遊ぶ二人に向けられたものか?
 それとも、悲しいまでに幼い自分に対する怒りなのか?
 嫉妬によって生じた怒りの感情をそのまま爆発させた少女は周囲の人間を呪い、世界を呪った。生贄の羊はロビーである。くだらない感情の発露が大事な人たちを不幸に陥れた。己の醜さが本当に美しいものを壊してしまった。
 ブライオニー・タリスの悔恨はここに起因する。本当に美しいものをその価値も弁えずに台無しにしてしまった。その思いから、ブライオニーの想像するロビーとセシーリアの物語は美しくある。運命的な愛は情熱と共に燃え上がり、約束の地にて永遠を刻む。海辺のコテージで寄り添う二人こそ、ブライオニーが望むロビーとセシーリアの姿だ。おだやかで優しい、まるで絵画のような光景。物語はこの場所に帰結する。

 さて、ブライオニー・タリスという独善的な女性の語りについて、彼女の言葉をそのまま信じていけないことはこれまでの考察で明らかにしてきた。ブライオニーは騙る。その言葉は美辞麗句だろうとそこに裏があるものと考えるべきだ。
 本作において、少女時代のブライオニーを演じたのはシアーシャ・ローナンである。セシーリアを演じたのはキーラ・ナイトレイ。ロビーはジェームズ・マカヴォイが演じた。美男美女が配役されたことの裏を読み取ると、これは『贖罪』における3人の描写にそれぞれ美しいとの記述があると考えられるが、ここでは原作小説の存在を忘れよう。ここで注目すべきは、美男美女が配役されたことだ。そして美男美女を他の関係者が引き立てていることに注目する。登場人物のあからさまな外見上の違いは無視できない。
 ブライオニーが少女の日の過ちを後悔する度に、その胸を罪悪感が満たす。取り返しのつかないことをしてしまったことは確かだが、罪悪感にいつまでも苛まれるわけにはいかない。ここは折り合いをつけて生きてゆかねば。
 そこでブライオニーは、ロビーとセシーリアを絶対不可侵の聖域に追い立てた。神聖な存在として持ち上げることで、自らの心の平安を取り戻す。罪を振り返るのではなく神聖な二人を仰ぐことで己の罪悪感から目を逸らしたのだ。
 ここで重要なのは、ブライオニーの視線の先に立つ恋人たちは彼女にとって美しくなければならないということだ。二人以外の人間は目に入らないほどに彼らは輝いていなければならない。そうでなければ自己欺瞞が素顔を覗かせて、ブライオニーは自分を騙しきれなくなる。ロビーとセシーリアが美しく、その愛のかたちが美しいのは、ブライオニーの要請なのだ。そうでなければ彼女が立ち行かない。
 だから、ロビーとセシーリアを演じる俳優は美男と美女でなければならないのだ。そして彼らと同じように、汚れさえしなければブライオニーもまた美しくいられた筈なのだから、少女時代の彼女を演じる女優は美女でなければならなかった。こういうわけでキーラ・ナイトレイとジェームズ・マカヴォイ、シアーシャ・ローナンがキャスティングされたのだ。

 実際のところ、ロビーとセシーリアの関係はどのようなものだったのだろうか?
 これまた想像に過ぎないが、ブライオニーが夢想したような純愛ではなかったかもしれない。二人は自分たちの階級差に目を瞑るほど子供でもなければ理性を失うタイプでもないだろう。現状認識力をそなえていたなら、互いに恋の相手として成就の望みがまるで無いことを弁えていた筈だ。
 それではブライオニーの目撃した、ロビーとセシーリアの性行為は如何なる理由を持つのか?
 若く健康な男女が性衝動の捌け口として身近な異性を求めただけなのかもしれない。恋愛ではなく肉欲によって結ばれた関係なのかもしれない。少女が目撃した図書室の逢瀬は、二人にとって最初で最後のことではなく、数限りなく行われた性行為のうちのたった一回に過ぎないのではないだろうか?
 ここまでロビーとセシーリアを、そしてブライオニーを貶めるようなことを考えるのには理由がある。ロビーがセシーリアに向けて本心を綴ったとされる、彼女に届かなかった手紙の文面に違和感を覚えるのだ。噴水での出来事によって互いが相手への恋情に気付く。まるでメロドラマだ。純愛を至高のものとし、これを崇拝する心性はあまりに幼い。十三歳の少女が夢みる内容と大差ないとしても、私は驚かない。だいたい、初めての体験で図書室をその場所に選ぶか? 迸る熱情そのままに行為に走ってしまいましたと云うのなら、それは恋情ではなくて欲情に駆られたのだろう。前言を撤回するようだが、若く幼い三人を強いて貶めることではないが、ただの肉欲を神聖なものと持ち上げるのもお門違いだ。
 ロビーが連行された日、全てが一日のうちに起こったとするにはあまりに都合がよい。あの日、ブライオニーが書き上げたとされる戯曲は身分違いの恋を描いたものだ。ロビーとセシーリアの関係を美しく潤色することの用意は整っていた。そうあらねばならなかったから、二人の"恋"は劇的な内容へと脚色されたのだ。
 成長したブライオニーは、想像の中でロビーとセシーリアに再会する。その時、彼らの気持ちを今はわかると述べる。これは恋愛感情とは別の求めで性交渉を結ぶことについての、十八歳の女性としての同意ではないだろうか?
 見習い看護師として物語に現れたブライオニーは早々に主任看護師から注意を受ける。患者がうわ言でブライオニーの名を洩らした、と。献身的な看護師と患者の心の交流ならば美談である。しかし、ブライオニーは主任看護師にかなり厳しく叱られた。主任看護師が職務に対して厳格ということだけが叱責の理由だろうか? 他に理由があるのではないだろうか?
 私が思うに、ブライオニーはその仕事内容や技術の未熟を責められたわけではない。看護師としての心得について自らを律することを求められたのだ。ここに私たち観客に隠された秘密があるものと考える。
 入院生活が続く男性患者は如何にして性欲を解消するべきか?
 いかにもポルノ小説にありそうな設定だ。周りには博愛精神に満ちた若い女性が大勢いる。病気や怪我さえなければ最高の住環境であり、女性に囲まれているからこそ最悪の住環境とも云える。ただそこにいるだけならば目の毒である。解消の当てもないままに性欲は刺激をたっぷりと受ける。生殺しである。
 ブライオニーの"看護"に行き過ぎたところはなかったのか? ゲスな想像だが、根拠がないではない。主任看護師がブライオニーに叱責する際、ここにブライオニーという一個人はおらず、看護師としてのナース・タリスがいるだけだ、というようなことを云った。消灯後、ひとり部屋を抜け出してタイプを打っていたブライオニーに同室の同僚は「激しい恋でもしてるのかと」と云った。どちらも状況証拠にすぎないが、これについてブライオニーは真相にせよ嘘にせよ何も答えていない。そして、私が最も重視しているのは次の点だ。
 十三歳のブライオニーをシアーシャ・ローナンが演じた。透明感と輝きに満ちた存在は特筆すべきものがある。数年を経て物語に再登場したとき、ブライオニーはかつての透明感や輝きを失ってしまっていた。野暮ったい外見になってしまったのは、彼女が貞節を汚したことの罰を表現しているのではないだろうか? だから、ロビーとセシーリアに再会したとする場面で、ブライオニーは彼らの気持ちをわかると述べたのではないだろうか?

 ブライオニー・タリスは清くも正しくもなく、まして美しくもない存在なのだ。そして今、死が迫っていることを彼女は実感する。独身を貫いたであろうブライオニーが後世に遺せるものと云えば物語だけだ。脳血管性認知症を患い、小説を書くことすら満足にできなくなって、彼女は作家としての集大成に全てを懸ける。自己存在の証明をこの物語に刻み込む。懺悔の念ともうひとつ、それとは明かさずに広く世間に知らしめる。"真実"の名のもとに、自分のできる最後の仕掛けを施す。
 ブライオニーはただただ赦されたい。しかし彼女にとって贖罪とはつまり、赦免の懇願である。懸命になって過去を取り繕っても、嘘によって塗り固められた告解で最後の審判は切り抜けられない。それを心得ている彼女は、表面上は懺悔を口にして亡くなった恋人たちの魂の平安を祈る。大切な人の人生を狂わせたブライオニーは死を前にして、自らの罪を背負って地獄に堕ちることの心の準備はできている。だから!
 だから、永遠の海辺を作っておく。恋人たちが幸せな日々を過ごすためのコテージを創っておく。そして、そこに心を置いてゆく。これから堕ちることの決まっている地獄の業火も、彼女のすべてを灼き尽くせない。あのおだやかで優しい、まるで絵画のように美しい光景に自分の一部を置いてゆくために、ブライオニー・タリスは『つぐない』を創作したのだ。
 これが本作がブライオニー・タリスの創作であることの理由である。

 客観的事実を拾い上げて論理的に考察を進めるつもりが、後半は想像力の翼を大きく広げてしまった。これでQ.E.D.とするのは些か虫がよすぎるだろうか。想像ばかりで考察を標榜するとは、ブライオニー・タリスに笑われてしまうかもしれないな。
 さて、これにて講釈は一巻の終わりとさせていただく。ああ、考察ではなくて講釈であったか。自ら認めるのは忸怩たるものがある。
 イアン・マキューアン原作の『贖罪』から生まれたる「つぐない」を思いのままに解体した。私のナイフで私が解体した。「つぐない」を感動をもって観賞した向きは、私のナイフ捌きに異を唱えることだろう。
 それはそれで構わない。返り血でべったりと汚れた両手に、私は満足している。ここまで自分勝手な解釈を施したことに満足している。云うまでもなく自己満足だ。
 イアン・マキューアンの『贖罪』を読む日がくるのかどうかはわからないが、ここで綿々と綴った内容こそ、サテヒデオ版「つぐない」のすべてだ。本作Blu-rayソフトにはジョー・ライト監督による本編音声解説が収録されており、それを聴くとまた別の解釈が立ち上がるかもしれないが、現時点での私の解釈はここにある。原作小説『贖罪』に対するそれではないことを強調する。
 物語の底に流れるタイプライターの音が無ければ、本作がブライオニー・タリスの創作という解釈をここまで通すことはなかっただろう。ン、憑かれたかな?

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つぐない from 象のロケット 2011-09-28 (水) 01:41
1930年代、戦火が忍び寄るイギリス。政府官僚の長女に生まれたセシーリア。兄妹のように育てられた使用人の息子・ロビーとの二人の愛は、 小説家を目指す多感な...

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