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殺人事件の作り方

amazon:[DVD] クッキー・フォーチュン  ロバート・アルトマン監督作品「クッキー・フォーチュン」を観た。「クッキー・フォーチュン」である。リンジー・ローハンとジェイミー・リー・カーティスの「フォーチュン・クッキー」ではない。グレン・クローズとジュリアン・ムーアとリヴ・タイラーの「クッキー・フォーチュン」だ。
 倒叙あるいは倒述形式のミステリは一般的なそれとは物語の構造が異なる。それはどういうものかと云えば「倒叙(倒述)」の言葉が示す通り。文章表現に倒置法というものがあるが、これは言葉の順番を逆にすることだ。例えば「ぼくは映画館へ行く。」という文章は「ぼくは行く、映画館へ。」と云い換えられる。この場合、倒置法を使うことで目的地である「映画館」を強調できる。倒叙(倒述)ミステリは一般的なミステリの在り様とは反対に、犯人の正体を冒頭で明かす。物語の最初に犯罪の様子が描かれる。それでは、この形式で強調されるものは?
 倒叙(倒述)ミステリの作品では、犯人の正体や犯行方法等は読者(観客)に提示される。それはつまり、犯人の人となりや犯罪へ至る際の内面の様子を詳細に描くことができるのだ。この点が一般的なミステリとは異なっている。そしてこの点からわかることは、犯人の正体や犯行方法といったものはミステリにおいて絶対に秘匿すべき情報ではないことだ。ミステリのジャンルの奥深さが窺える。
 倒叙(倒述)ミステリがどんなものかを言葉を尽くして説明するよりも、具体的なタイトルを挙げてイメージしてもらったほうが手っ取り早い。例えば物語が殺人事件を扱う場合、犯人が殺害を実行する場面を冒頭に置いて読者(観客)に提示するのが、このタイプだ。代表は「刑事コロンボ」のシリーズ。コロンボの名を目にして「ああ! 犯人の正体が最初にバラされるやつね!」と思い至った向きもあるだろう。その理解でかまわない。日本のテレビドラマ、「古畑任三郎」も倒叙(倒述)ミステリだ。
 私が考えるところの倒叙(倒述)ミステリの魅力は、犯人や犯行を目撃した読者(観客)すら気付かなかった犯人の落ち度が論理的に指摘されるところだ。犯人にも読者(観客)にも視えていなかった犯罪実行過程に瑕疵があって、これが論理の輝きを鋭く反射するのを目の当たりにして、ミステリ好きとしての私の心は打ち震える。あるいは完璧であるかのように描かれた犯行計画が、探偵の一撃によって見事に瓦解するところに滅びの美学を認めるのだ。日本的に云うならば「もののあはれ」だろうか。
「刑事コロンボ」では犯人とコロンボの対決の構図が完成しており、この点が多くのファンを獲得していることは否定できない。犯人が絶対の自信を誇る犯行計画を盾にコロンボに挑めば、コロンボは犯人が見落とした計画の瑕疵を攻撃する。互いに相手を敵と見做して、その緊張感のなかで闘争を繰り広げる。コロンボの乾坤一擲の攻撃が鉄壁を誇った犯人の牙城を陥落させる結末を、それはシリーズ作品の約束事であるにもかかわらず、常に新鮮な驚きをもって迎える。「刑事コロンボ」における対決の面白さは、しかし倒叙(倒述)ミステリ全般にそなわるものではない。それとは別に、ミステリ作品がそなえていなければならないものがある。
 ミステリ作品において作者が守らなければならないのがフェアプレイの精神だ。ミステリは作者と読者(観客)との正々堂々の勝負だからである。一人称視点で綴る場合や伝聞の体裁をとる場合を除いて、地の文において虚偽の記述があってはならない。探偵が犯人を指摘する段になって、それまで物語に登場していなかった人物が犯人として現れてはいけない。他にもミステリにはジャンル全体に通じるルールがある。それらはフェアプレイ精神を反映したものである。フェアプレイが守られてこそ、遊びとしての文芸が成立するのだ。だから、一般的なミステリでは作者と読者(観客)の勝利条件の象徴である犯人は、秘匿しつつも物語の中盤までに登場させておかねばならない(犯人の正体だけが物語における謎とは云えないが、多くのミステリ作品がフーダニットであることは事実だ)。しかし、倒叙(倒述)ミステリにおいてはこの前提が揺らぐ。
 犯人の正体が序盤から明らかなればこそ、作家は犯人の殺人に到る心の動きや行動を詳らかにすることができる。また、登場人物に対しては彼らの行動原理にそぐわない行動をとらせることをせずに済む。出来の良くないミステリには、トリックを成立させるためにそれまでの行動原理に沿わない、人格が破綻しているかの如き登場人物が現れる。全然納得できない。架空の存在であれ、物語世界に生きる一個の人間である。人として選んだ行為であり犯罪であるが故に、その人物造型に則した犯罪方法やトリックの創出が求められる。犯人を含めた登場人物は物語の為に作家が用意したギミックではないのだ。
 倒述ミステリは正々堂々と人間を描きつつミステリを完成させることのひとつの手法と云えよう。但し、たったひとつの冴えたやり方と云うわけではない。

 ミステリ作品を取り上げるとき、作品を構成する要素で最も大きなもの、つまりトリックの内容だとか犯人の正体だとか云うのを明かすことは、これを避けなければならない。これが辛いところである。作品について思うところを詳述すれば作品自体の内容に深く踏み込む必要が生じ、かと云ってネタを割ることはミステリにおいてタブー。
 本作は倒叙(倒述)形式が採られており、登場人物の行動に秘匿されるところはない。だからと云って許される理由にはならないが、ジュエル・メイ・オルカットの死とそれが齎したことの顛末について、ここで述べることにする。本記事で私が述べたいことは、内容に肉薄しないことには触れることができないのだ。それでもできるだけ迂遠な表現を試みるつもりだ。
 さて、ネタを割ることを宣言した以上は次の言葉が必要になる。つまり、本作を観賞していない向きは回れ右! さあ、「戻る」をクリックするのだ!

 事件解決において犯人を確定するには、犯行における動機と方法と機会のそれぞれを明らかにしなければならない。容疑者は犯行動機を持ち、犯行を完成させた方法との関係が認められ、犯行を実行に移す機会を持ち得たか。もしこれらの要件をひとつでも満たさないならば、疑わしきは罰せずの原則でその容疑者の逮捕送検は見送られるだろう。また、物的証拠の無い推理に説得力は無い。そこにはある人物に犯行の可能性があると云う以上の意味は無い。探偵は、特にそれが警察機構ならば容疑者に犯行の動機・方法・機会のあることを解明して、そのうえで物的証拠を突きつけなければならない。推理を滔々と垂れるだけでは済まないのが宮仕え。これができない場合、完全犯罪が完成する。

 クッキーことジュエル・メイ・オルカットの死後、捜査陣が先ず目を向けたのは同じ地所に住むウィリス・リッチランドだが、この優しくて見かけよりはるかに聡明な男の容疑はすぐに晴れる。彼と故人とは誰もが認める親友であり、事実その通りだった。
 次に容疑が濃厚となったのはカミール・ディクソンである。カミールは伯母の死後に最も利益を得るべき人物と自ら認めていた。この教条主義者とクッキーとの間柄は良好とは云えず、そしてクッキーにはカミールにはない財産があった。カミールにはクッキー殺害の動機がある。
 クッキーに死を与えた拳銃は彼女の亡き夫のものだ。玄関からすぐのところに専用の戸棚があり、そこに並ぶ遺品の1丁が使われた。クッキー宅を訪ねたことのある者なら誰しもがそこに銃のあることを知っている。だから拳銃の入手先からそれを使用した人物を特定できないが、その拳銃を庭先に投棄した人物は特定できる。捜査陣にとって幸運なのは、カミールが拳銃を捨てるところを目撃した人物がいること。
 クッキーの死と拳銃は分かち難く結び付き、拳銃とカミールもまた強く結び付いている。三段論法ならばクッキーの死とカミールには関係があると云える。カミールにはクッキー殺害の動機があり方法を有していた。クッキーの死亡推定時刻のアリバイを証明できなければカミールの陥落は目の前だ。
 ミステリではお馴染みとなったアリバイという単語。事件発生時のアリバイの有無が重要になるが、そもそもアリバイとは犯行時現場不在証明の意味だ。つまりアリバイを問われるということは、犯行が起こった時に犯行現場にいなかったことを証明できるかどうかを問われるのだ。これが難しい。犯行が起こった時刻が夜半ならばたいていの人間は自宅で休んでいる。ひとり暮らしならばアリバイを証明してくれる第三者はいないし、家族と同居していても彼ら家族の証言は当てにならないとされる。これは身内を守る為に偽証を犯す可能性があるからだ。反対に家族から告発があった場合、その家族の間に骨肉の争いが無ければ、その証言は信憑性が高いとして重要視される。
 クッキーの死亡推定時刻におけるカミールのアリバイを証言するのは四六時中行動を共にする実妹コーラだが、そうは云ってもコーラは知能の発育に問題がある。これを云い直すと、カーラは謀略とは無縁だ。
 そのコーラがきっぱりと断言する。クッキーの死は殺人である、と。この言葉に警察は色めき立つ。いつもカミールの後ろについているコーラの証言が意味するところはなにか? 誰がクッキーを殺したのか? もしや本当に......。

 本作は倒叙(倒述)形式だから事件の真相は観客の眼前に現れているが、事件の進行とともに長い間伏せられていた事実が明かされる。すなわちクッキーの遺産相続者とエマの家族事情だ。特に後者の秘密は後の展開に影響を与える。しかしロバート・アルトマンも人が悪い。彼女たちの輪郭が伏線になっているとは誰も気付くまい。
 ずっと暴君の支配下に置かれていた女は自由になる為の千載一遇のチャンスを逃さなかった。いつもの通り何もわからないから自分の証言の重要性に気付いていないのも無理はない。皆はこう思うに違いない。いつも通りの自分を演じればそれでいい。
「外の空気はおいしい! やっと息がつける」
 この科白の凄みは、さすがはジュリアン・ムーアだ。名女優の面目躍如と云えよう。

 ミステリ好きが本作を観たならば、真相が歪んでゆく様に狂喜することだろう。寧ろ、ミステリの文脈に慣れていないと本作の面白さはつかめないかもしれない。ミステリ好きならば一度は観るべき作品だ。これは断言できる。
 しかし本作を観たならば、この記事における騙りが明らかになってしまう。それはそれで拙いなあ。

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クッキー・フォーチュン from 象のロケット 2011-09-14 (水) 20:05

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