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いやホント、次こそは絶っっ対にワタシの番だからッ!!

amazon:[文庫] 夜は一緒に散歩しよ  黒史郎『夜は一緒に散歩しよ』を読んだ。
 読んだよ。ああ、読んだサ。だから、ここ二回の記事で読んだって書いてるンじゃないかよ。そうだよ。これで三回目だよ!
 チクショー、どいつもこいつも嘘吐きを見るような目で見やがって。見世物じゃねぇぞってんだ、バカヤロー!
 いや、もうホント......、今回で終わらせるから、絶対に今回でケリつけるから......、だから見捨てないでください......。

 ホラー小説家、横田卓郎は妻の三沙子を約一年前に亡くして、現在は娘の千秋と二人暮らし。三沙子の死は突然で、それだけに心の整理がつかないけれども、それは千秋も同じなのだから、と父親として娘に気を配る卓郎だが、実際にはどう接するものかよくわからない。
 わからないと云えば、千秋は本当のところ母親の不在をどのように捉えているのかがわからない。死に対する認識のまだできあがっていないうちに三沙子が亡くなったものだから、あるいは一時だけどこかに行っていると思ってはいまいか。著作では死を扱うものの愛娘にどう説明したものか、まるでわからない卓郎だ。
 自宅から程遠くない位置に川が流れている。川に沿って通っている道は、かつて卓郎と三沙子の散歩ルートだった。イラストレーターをしていた三沙子は、散歩の途中によくスケッチをしていた。卓郎が三沙子に結婚を申し込んだのもこの場所だった。
 生前の三沙子と同じように、千秋はこの散歩道を気に入っている。しかも午後11時という、幼児には遅すぎる時刻の散歩を。お絵描き帳と色鉛筆を携えての夜の散歩は千秋のお気に入りであり、娘の健やかな成長を願う卓郎としてはこのまま続けてよいものか悩んでしまう。
 娘の健やかな成長の為にも、本当ならば夜間は睡眠に充てさせるべきなのだろう。しかし、あまりわがままを云わない娘が、卓郎が執筆作業に没頭している間はおとなしく絵を描いている千秋が、唯一といってよいほど強く望むのが夜の散歩。保護者として至らないところの多いことを自覚している卓郎は、これくらいの望みは叶えてやりたいと思うのだ。
 母親の血を濃く受け継いだものか、千秋には絵の才能があるようだ。千秋が何を見て、何を感じているのかはわからない。けれど彼女の描く絵は見るからに独創的で、卓郎はそれらにタイトルをつけることを楽しみとしている。
 最近、千秋が描くのは、青い顔の女だ。彼女はこの女をママだという。

 前回までの記事について、ここで振り返ることはしない。そんなことをすれば、また文字数ばかり使って前に進めなくなってしまう。こんな面白みのないブログを訪れてくださる方には申し訳ないけれども、各自でご確認くださいますようお願いします。でなければ、「また同じこと書いてやがるぞ、この馬鹿!」と、私は罵声を浴びてしまいます。もう既にサンドバッグです。
 そもそもがミステリ好きの私なので、ネタを割ることに強い忌避感を覚えるものではあるけれど、まして本作「夜は一緒に散歩しよ」はミステリ的構造を持つと述べはしたけれど(前々回記事「次はワタシの番」を参照のこと)、ネタを割らなければ語れない事柄もある。配慮はする。配慮はするけれど、自分の文章を制御できないことは前回までの記事でわかっていると思う。あまり信用しないように。
 本作を未読の向きには、ここで「戻る」をクリックすることを絶賛推奨中!

 本作の作者は実に粘り強い。
 読者がまず注目するのは千秋だ。家庭環境の激変が原因なのか、父親が自宅で仕事しているにもかかわらず親子の時間のとれないことが影響したものか、亡き母親の血を濃く受け継いだためだろうか、普通の子とはどこか違っている。"普通の子"なんてどこにもいない、と云われればたしかにその通り。しかし、千秋が周りから浮いているのも事実。
 本作では、ある程度のページ数を費しても、怪異らしき怪異は顕在しない。怪異らしく感じられる出来事があっても、そこから怒濤の如き急展開が待っているわけでもない。
 しかし、千秋が夜の散歩に拘るようになり、青い顔の女を描き続けるようになると、その一挙手一投足は不気味じみてくる。そのわがままは、幼い反抗というより執念を思わせられる。
 なんだ、これは。"恐ろしい子供"の物語なのか?
 読み進めるにつれて、千秋の行動に影響を与える存在のあることが、おぼろげながら浮かび上がってくる。千秋が従うのは、彼女の云うところの"ママ"だ。青い顔の女だ。幼いが故に幻想と現実が未分化のまま成立する千秋にとって青い顔の女は実在するが、この存在しないはずの女はやがて現実世界を侵犯してゆく。千秋が描いた青い顔の女の絵は、これを見た者に強い影響を及ぼす。あたかも千秋の絵を媒介してその実在が伝播するかの如く。やがて街は自殺者の行き着く地として全国的に有名になる。
 よしんば千秋の絵に影響力があるにしても、千秋自身が何かしらの影響下にあるのならば、彼女は怪異の原因とは云えない。元凶は、青い顔の女だ。そして、千秋が女を"ママ"と呼ぶからには、青い顔の女は死んだ三沙子なのだろうか?
 頻発する怪異に対して千秋に疑惑の目を向ければ、青い顔の女の絵がクローズアップされる。青い顔の女の絵による悪影響が叫ばれるようになると、千秋に絵を描かせる存在について示唆がある。このように、ひとつの謎が浮上すればそれについての一応の解決が提示され、次に新たな謎が浮かび上がる。本作は謎と解決の積み重ねで構成されていると云ってよい。
 謎に対して一応の解決、としたのには理由がある。解決とは云うものの、これは物的証拠に基いた推理が為されたうえで導かれるものではない。状況の推移から考えてみるに、謎にある程度の判断を下すことができる、といった程度にすぎない。また、状況の推移というのも、疑惑を払拭するに足るほどの変化であり、この状況の変化は概ね好転と云えるものだから、作中登場人物は謎について深く追及しない。よって、謎は根本的な解決には至らず、真相解明は留保されたまま。読者はもやもやとした気持ちを残しつつも、ページを捲って読み進めるしか為す術を持たない。

 卓郎と千秋をめぐる状況は、良くなったり悪くなったりを幾度も繰り返して、まさに「禍福は糾える縄の如し」を表しているようだけれど、全体を見るとだんだんと悪化しているのがわかる。卓郎の後添いとなった美樹はどんどんやつれてゆき、まるで千秋の描く青い顔の女のようになってゆく。千秋の奇行は一旦はおさまったものの、やがてエスカレートする。状況は卓郎が再婚する前より悪くなっている。
 状況が悪化するのは横田家だけではない。彼らの住む街は自殺者の行き着く先として全国的に有名になるほどに死に覆われてゆく。卓郎の周りでも自殺が絶えない。
 禍福が順序よく訪れることには意味がある。まるで二つの勢力がせめぎあっているかのようだ。これは作者の仕掛けだ。状況の変化に合わせて、読者が不安を覚えたり安心したりというのを、作者はコントロールしているのだ。特に千秋に対しては、彼女ががんぜない幼児だけに、読者は保護欲を掻き立てられながら彼女の動向を見守ることだろう。自分の娘や姪や妹へと向けるような視点でもって千秋を眺めてしまう。こうなると読者は、まるで鼻先に人参をぶらさげられた馬だ。知らず知らずのうちに千秋の後を追ってしまう。千秋の一挙手一投足に翻弄される卓郎を笑えやしない。

 千秋に強い影響を与えるのは、彼女の"ママ"だ。"ママ"の目的は、状況の推移から想像するに、横田家に入り込むことにある。かと云って、家屋に執着があるわけではないようだ。建物を選んでにじり寄る地縛霊予備軍というのもユニークだけれど、この場合は障りを避けたければ引っ越せばよい。"ママ"の狙いは横田家の敷地や家屋にあるのではない。"ママ"が欲しているのは家庭だ。
 かつて、"ママ"にはガツガツした飢餓感が常にあった。だからと云って飢えを満たす為に周りに媚びることをしなかった。ただ眼をギラギラさせて獲物を探すも、彼女自身、自分にとって何が獲物なのかをわかっていなかった。自分がそれまで行ってきた活動のなかにも見出せなかった。いったい自分は何を求めているのか?
 一冊の本との出逢いが、彼女に獲物の確かな実在を感じさせた。妻として横田タクロヲと共にあることを望んだ女は、自分の目的を果たす為にどうしても手に入れなければならないものを見つけた。それは、夫婦の証しと二人の愛の結晶。
 指輪は左手の薬指に光っている。千秋は自分を"ママ"と呼んでくれる。もうあの家は出入り自由だ。あとは家族みんなで棲めたなら、私の望みは叶う。これまで散々邪魔が入ったけど、戦局はどう見ても私が優勢。逐次手番ゲームの特性として連続した攻撃権を与えられることはないけれど、自分に有利となる手を積み重ねてゆけばおのずと勝ちが見えてくる。
 やはり、勝つことへの強い執念が最後に物を云うのだろうか。

 お絵描き、鼻歌、ファンとの交流、紙芝居、そして夜の散歩。
 これら全てが、本作では時に楽しく、時に恐ろしいものとして描かれる。それぞれに二つの面を持って、読者に提示される。明るく微笑ましい面を向けて読者の前に現れても、すぐさま暗くおぞましい面を見せて迫る。厭な展開に眉を顰めていたら、次には事態が好転する。安心も束の間、状況の悪化に心は曇る。そして、またそして。
 幸福に数値を付けるとしたら、横田家を中心としたこの街の幸福値は乱高下を繰り返す。読者は、その波にのまれる木っ端のようだ。
 ただただ波間に漂うのにすっかり厭いた読者の気持ちを、作者はちゃんと承知している。これまで状況に翻弄されるばかりだった卓郎の尻を叩いて、彼を謎解きに邁進させる。最後の仕掛けを完成させる為に!

 犯人はわかった。
 何が起こっていたのか、ということも判明した。
 しかし、真相が明らかになったところで、物語の幕が降りないのが恐怖小説だ。最後のページを読んだ後、読者の心には光をはねかえさないほどに昏い川面が広がることだろう。死んだように静かな川面は、しかし泡が二つ三つと浮かび上がり、この川に何かが潜んでいることを物語る。
 その様子を眺めるうちに、冒頭部分を思い出す。そこに描写されるのは、川から引きあげられた女性の死体。その左手の薬指には指輪。この指輪をしたまま発見されたということから、この死体のが誰なのか思い至る。物語では語られない彼女の消息を想像して総身が粟立つ。
 謎は解かれた。真相は明らかになった。卓郎を通して眺めたこれらに納得した。しかし、全てが終わったわけではない。ここにおいて、ついに読者は取り憑かれる。
 自分のなかに恐怖の種を宿したまま本を閉じる。今感じている恐怖は、すぐに慣れるだろう。しかし、作者に植え付けられた恐怖の種は、いつ芽吹くかわからない。いつ花を咲かせるか知れない。これが「取り憑かれる」と表現したことの意味だ。脳に仕掛けられた時限爆弾だ。
 本作はとてつもない怪談小説だ。一読の価値は勿論、数度の再読にたえられる完成度を誇る。読んで読んで、オマエも取り憑かれてしまえ。
 ああ、呪われてしまった......。

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