いやホント、次こそは絶っっ対にワタシの番だからッ!! | HOME | 次はワタシの番

次こそはワタシの番!

amazon:[文庫] 夜は一緒に散歩しよ  前回、なんだかわからないうちにブログを更新していた。取り上げるつもりだった作品にはろくに触れずに、気の向くままに好き勝手書いていたら、いつの間にか記事を仕上げていた。21世紀の「お筆先」っていうのかしら? いやはやビックリだよ。
 疲れていたのか。自分では気付いてないけど、夏風邪をこじらせてたのかもしれない。それともやっぱり憑かれていたのだろうか。『夜は一緒に散歩しよ』を読んで、その感想を書こうと思っただけなんだってば。怪談やら恐怖小説やらについて大層なことをいえる立場にないのよ、私。それがどうしてこんなことになっちゃったんだろう?
 やっぱり、憑かれてるのかなあ。
 黒史郎『夜は一緒に散歩しよ』を読んだ。

 人を泣かせたり勃たせたりするならまだしも、笑わせたり恐がらせたりするのは難しい。特に、文章表現における恐怖描写は、それ自体、成功させることが難しい。このことを前回の記事で述べた。
 そもそも恐怖感情は長時間持続できない。人は恐怖に慣れてしまう。
 読書では、恐怖を覚えるような情景も背筋の凍るような場面も、全てが読者の想像に任される。映像作品の観賞とは異なり、恐怖を抱かせるような光景が眼前に展開するわけではない。つまり、文章の意味するところをきちんと理解し、作者の意図したような想像をしなければ、読者は恐怖を楽しめない。
 今回、これらに付け加えたいのは、読者に恐怖感情を抱かせるのは本当に難しいけれど、恐怖とは別の悪感情を抱かせるのは恐怖感情を抱かせるほどには難しくない、ということだ。ここで考えるのは、不快感といったような悪感情は恐怖感情と親和性が高いこと。
 ちょっと待て。ということは、今回の記事でも「夜は一緒に散歩しよ」について語れないのか? イヤイヤイヤイヤ、それはない! ここまで引っぱっておいて「やっぱり『夜は一緒に散歩しよ』について語れませんでした、スミマセン!」は、無い。天丼にもほどがある。安心して読み進めてください。

 読書中、ナメクジが頭を振りながら皮膚の上を這いのぼるような感覚を、まざまざと感じることがある。
 自分ひとりしかいない部屋で本を読んでいるのに、どこからか何者かに視られているような気がする。なにかしらの気配を感じる。
 作中登場人物の衝動につられて、血に対する昏い欲動を抑えられなくなる。
 上に挙げた皮膚感覚も霊感も衝動も、そもそもは自分のものではない。作家の仕掛けた罠である。ナメクジが体の上を這いまわるのも、得体の知れないナニカの存在も、非道徳的で犯罪そのものといった行為への欲動も、それらが忌避感とともに実感されるならば、これは恐怖とまではゆかなくとも不快感として意識されることだろう。
 狂人が自らの歪んだ論理を延々と唱える。自慢の暴力に恃む者が無抵抗な者を思うままに虐げる。力を持たない子供がより弱い存在の生命を無邪気に奪う。隣人が壁をカリカリと引っ掻きながら、聞いたことのないような歌をぼそぼそ歌う。受験に失敗した学生が、鬱屈した思いを晴らそうと文化財に放火する。罪悪感なき犯罪と、それが罪であると承知しながらも自らにいいわけをして手を染める犯罪。道路に放置されたままの猫の死体。黴びた布団とそこに横たわるナニカ。湿った空気のなかに嗅ぐ血の匂い。腐った食料とそれを食べさせられる弱者。壁一面に書かれた血文字。地面の下、縦横に通る下水道に住まう生き物の噂。行方不明になった女子生徒のものと思われる鞄。剥がれた壁紙とそこから覗く木目が描くもの。やまない耳鳴り。赤子が吐き出した節足動物。
 人を不快にするもの、悪感情を抱かせる事柄、これらは幾らでもある。人によっては不快に感じるどころか恐怖を覚えるかもしれないが、これは作家にとって嬉しい誤算だ。

 読者に恐怖を味わわせるには、先ず不快感を煽るような描写で読者の感情を不安定にさせておき、ここぞというところでしかも読者の予想もしないところからの恐怖描写をお見舞いする。絶え間ないジャブで緊張を強いて、且つガードを下げさせておいての顎への一撃。これが効く。物語の冒頭から血まみれの殺人鬼や名状しがたいヌルヌルグチャグチャが現れたなら、確かに驚きはするだろうけれど、いきなりの非日常な出来事に面食らうだろうけれど、恐怖におののくだろうか。全ては描写次第といえばそうなのだろうけれど。

 読者に悪感情を抱かせるのは恐怖感情を抱かせるほどには難しくない、と先に述べたが、これは相対的に難しくないのであって、文章表現によって読者の感情をコントロールしようというのだから難しくない筈はない。不快感を煽ろうと、ついついやり過ぎてしまい、苛々の溜まった読者に「読んでて気分悪いッ。こんなクソみてぇな本、誰が読むかぁボケぇ!」と、著書を壁に投げつけられても悲しいだけ。悪感情を植え付けて煽るのが手ぬるくてはそもそもの効果が得られず、過剰であっても逆効果となる。何事も加減が難しく、それだけに重要なのだ。

 ホラー映画を思い浮かべていただきたい。観賞中に「これから何かが起こるな」と感じることがある。すると、その通りに鮮血ドバドバの「痛い痛い痛い痛いッ」という場面に突入する。では、なぜ前もって惨劇の起こることをわかったのか?
 簡単だ。カメラワークから劇伴から、緊張を強いられるような演出が為されるからだ。よほどの鈍感でない限り、視線はスクリーンに釘付けになりながらも身構える筈。眼前において、どんなに悍ましい出来事が展開しても堪えられるように。
「来る来る来る来る......。アレ、来ない? やっぱり来たァ!」
 張り詰めた緊張の糸には、いずれ変化が訪れる。フッと弛むか、よりいっそう大きな力で引っ張られて断ち切られるか。糸の比喩は実に象徴的だ。つまり、緊張と緩和である。
 笑いとは緊張と緩和である。ツカミ、フリ、オチのそれぞれの要素がこの流れで配置されるわけだが、演じるうえで重要になるのは緊張と緩和のバランスだ。落語にせよ漫才にせよコントにせよ、演者の力量はここに表れる。いくら良い台本を得たとしても、字面をそのままなぞったところで面白くなるわけではない。何度も舞台にかけることで、演者自身が体得しなければならないものがある。"舞台が芸人を育てる"とは、"観客の反応から緊張と緩和を学ぶ"ということだ。
 芸人にとって、緊張と緩和とは何か?
 それは"間"である。
 そして恐怖を演出するにあたっても、緊張と緩和は重要なのだ。
 ホオジロザメが近付くとき、暗がりの向こうにホッケーマスクの男の気配を感じるとき、背後に流れるのは弦楽器の叫びだ。聴覚に訴えかける演出によって観客は緊張させられる。最大級の緊張を強いられ、或いは肩透かしを食った直後、観客は最大級の緊張を強いられるわけだ。弄ばれまくる観客から失神者続出。そりゃそうだ。緊張と緩和は、そのまま肉体に作用する。だから、笑いもするし恐怖に慄きもする。だから、循環器系が弱いのにホラー映画を観て、あまりの残虐映像に心停止するというのは、あながち嘘とは云えない。

 肉体的反応を左右する刺激を与えて感情を操るというのは、本末転倒な事態を引き起こしかねない。これもホラー映画の例を挙げるが、いきなりの大音響で観客を驚かせておいて、その反応を恐怖と観客自身に勘違いさせるという手法がある。製作者にとってはお手軽な手法だが、お手軽なあまり濫用されすぎて見抜かれてしまっている。今では陳腐に感じられるこの手法は、ホラー好きな観客を白けさせるのにひと役買っている。そうはいってもなんだかんだと有効なこの手法が通用するのは映像作品においてのこと。物語のすべてを脳内で再構成しなければならない文芸作品では、基本的に成立しない。すべては読者の頭の中で起こるのだから。タイミングも音量も、意識的にせよ無意識的にせよ読者が調節し放題。
 但し、巧い作家による文章には、少なくともタイミングについては読者を誘導する力がある。作者の意図したように読者を操ることができる。これを文章力と呼ぶのは容易い。しかし、これを身につけるのは本当に難しい。
 前回の記事に書いた、「読者の理解と想像を邪魔しない」文章は、主に間違った文章表現や理解を妨げるほどに修飾過多な文章表現を排除するという意味合いを込めた。これは校正を重ねることでほとんど解決できるだろうけれども、読者を操るほどの文章力は努力したり作業をこなしたりしたところで必ずしもそなわるわけではない。
 専ら平易簡明な文章に終始することで、読者が文章を追うリズムを均一にする。読者に文章の持つリズムと同調させておいて、そのうえで仕掛ける。

 仕掛ける? 何を?
 悪感情を抱かせるような描写と、緊張と緩和を効果的に用いた展開、を。
 そのうえ長編ともなれば、物語全体の構成を考えなければならない。最後まで読者の興味を持続させ、読者の納得するような決着を用意しなければならない。このように、ヤマとタニを効果的に配置しつつ、物語全体としてはだんだんとクライマックスに向けて盛り上げてゆき、そのクライマックスで事の真相を明らかにしなければ、読者に驚きと満足とを提供するのは難しい。
 恐怖小説を専門に書く作家というのは、天才か気違いかとびっきりのマゾヒストか、いずれにせよまともな人種ではない。あるいは、そのいずれもがひとつの個性のなかに共存しているのかも。だとするならば、やはりどうかしている。街中で見かけたら石を投げつけられる人種だ。って、酷いな。

 長いッ!
『夜は一緒に散歩しよ』を読んだ。面白かったので作品について感想を垂れ流す。ただそれだけのつもりが、何がどうしてこんな流れになってしまったのか。ほとんど作品に触れないという体たらく。自分で自分の文章を制御できないなんて、まるで島鉄男じゃないか(瓦礫の山の王様だね!)。
 ああ、そうさ。この部分は前回記事のコピペさ。それがどうした文句あんのかよ。まさか今回もこんなことになるとは思わないじゃんよ。自分でもびっくりだよ。
 ここまでくると、素直に『夜は一緒に散歩しよ』を読んでもらうのが一番だと思う。思うもなにも、実際に読むのが一番なのは当たり前だよ。メディアファクトリーから出ている文庫は680円だよ。そこまでする義理もないのに宣伝しちゃったよ。
 次回こそは、本当に次回こそは「夜は一緒に散歩しよ」をちゃんと語るぞ、ジョジョォオオ!!

いやホント、次こそは絶っっ対にワタシの番だからッ!! | HOME | 次はワタシの番

Comments:0

Comment Form

Trackbacks:0

TrackBack URL for this entry
http://mescalinedrive.com/mt-tb.cgi/9
Listed below are links to weblogs that reference
次こそはワタシの番! from MESCALINE DRIVE

Home > 次こそはワタシの番!

Feeds
blogram投票ボタン フィードメーター - MESCALINE DRIVE 人気ブログランキングへ
Message
Visitor

Return to page top