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次はワタシの番

 逐次手番ゲームと云うのは、たとえば将棋や囲碁やチェスといった、プレイヤーの攻撃権が順番に巡ってくるものを指す。これに対して同時手番ゲームはジャンケンが代表的で、プレイヤーが同時に攻撃する。また、逐次手番ゲームは、今挙げたような伝統的なゲームばかりではなく、トレーディングカードを用いるものやボードゲームが様々にあり、そういったゲームも概ねこの種類に属する。マジック・ザ・ギャザリングも人生ゲームも逐次手番ゲームだ。
 逐次手番ゲームにおいては攻撃権が交互にまわってくることから、先手であっても後手であっても攻撃に対して同時に防いだり反撃したりといった対応がとれない。また、たとえ妙手を考えついたからといって二回連続して攻撃することもできない。そして、これは云うまでもないけれども、一度指した手が悪手だからといってやり直すのは許されない。縁台将棋であったなら、「その手、待った」や「やり直させて」が許される場合もあるのだろうが、たいていはそんなの通用しないだろう。ましてや何かを賭けていたならなおさら。何事も取り返しのつかないことはあるものだ。
 同時進行の攻防ではないから、と気を抜いてはいけない。何手先をも見通さなければ勝利するのは難しい。一見して悪手と云える一手も後になって効いてくることがあるので、果たしてなおざりにしてよいものか、つくづくと悩む。
 とは云うものの私自身は将棋を指せばヘボ将棋、碁はまったく打てず、チェスは駒の動かし方から覚え直さなければならないという体たらく。これがカードゲームともなると、カードの収集欲ばかりが強くなって、肝心のゲームに対する情熱は不完全燃焼。そもそも数手先を読むということが私はどうにも不得手なのだ。バカとも云う。余計なお世話だ!
 ゲームに勝つには、それが逐次手番ゲームのものにせよそうでないにせよ、適性は勿論のこと、勝つことに対する執念や渇望が必要なのだろう。自分で云うのもおかしいけれど、私はのんびりしているからなあ。おそらく向いてないのだろうな。

amazon:[文庫] 夜は一緒に散歩しよ  黒史郎『夜は一緒に散歩しよ』を読んだ。
 読後、嘆息した。物凄く考えられている。そのことに感動した。
 本作は恐怖小説である。第1回『幽』怪談文学賞において長編部門の大賞を受賞したのだから、怪談小説とカテゴライズされるべきなのかもしれない。ともかくも作者は読者に恐怖を味わわせる為に本作を書いた。恐怖を惹起させる為に作者が用意したのは驚くなかれ、一本の川だ。作者は街に川を通すだけで、物語世界を異界へと変えてしまった。ページを捲るたびに、平穏な家庭の、美花に励む街の、澄んだ空気がどんどん澱んでゆくのを読者はまざまざと感じることだろう。
 作者はじっくりと字数を費して、読者を異界に招き入れる。それは粘り強く、そして巧妙だ。一旦、異界に迷い込んだ読者はそこから抜け出す為に前に進むしかない。作者によって示された道標は、果たして私たちを平穏な日常へと無事に導いてくれるだろうか。
 冒頭に登場するは、ひとりの女性。否、彼女の死体。左手の薬指には指輪が光る。午後11時12分を差して止まった時計。
 至って簡単な描写で語られるこの事実こそ、物語の最後の最後で効いてくる。その意味するところに思い至って、直前の安堵の吐息は間を置かずして声なき悲鳴へと変わる。私たちは心穏やかに本書を置くことができなくなる、絶対に!
 作者の仕掛けはここに完成する。

 怪談にせよ恐怖小説にせよ、これらを綴るに長編をもってするというのは、実はとても難しい。人は恐怖に慣れる。一旦、恐怖に襲われたとしても、その感情のピークはすぐさま過ぎ去ってしまう。恐怖という感情は囚われ続けることができない。
 これはホラー映画を考えれば理解できる。殺人鬼は初登場の際、その異様な風体を晒すだけで観客に悲鳴を上げさせられる。しかし、作品を重ねるにつれて、それだけでは強欲な観客の満足を得られなくなる。恐怖の的である筈の殺人鬼は、手を変え品を変えて残忍な処刑法をあみださねばならず、それだけの苦労を余儀なくされながらも、ついには道化として笑われる始末。今、ホッケーマスクの男がスクリーンに登場したら、或いはやんやの喝采が起こるやもしれない。もしくは憫笑が。
 映像のように、視覚に直接訴えかける表現であっても、恐怖感情を長時間持続させるのは無理だ。まして理性の生んだ言語によって綴られる物語は、これをもってして恐怖感情を生じさせて、その感情を長時間持続させるというのは、これは本当に難しい。そもそも文章から想像を経由して感情を揺り動すという点で、読書における恐怖感情の惹起はその難易度を高めている。
 眼前で展開する事柄がそのまま認識される映像作品と異なり、文章からその情景を想像しなければならない文芸作品では、個々の読者がそれぞれの脳内で物語を再構成する。そして脳内で再構成された物事というものは、読者ひとりひとりにおいて必ず差異が生じる。これは読書が個人的体験であると云われる所以である。ひとつの単語から生まれる具体的なイメージは人それぞれであることから、同じ小説を読んだとしても私の物語とあなたの物語とでは、そこに必ず差異が生じる。
 読書は個人的体験であり、そして能動的行為でもある。読者は本に記された文字をよりどころにして、その意味するところを脳内に再構成する。理解と想像とによって読書は為されるのだ。そして当然のように自らの理解の範囲内でしか、人は物事を受け止められない。
 ならば、この世の理の埒外に住まう者や事柄を扱う怪奇幻想文学の作品は、作者の意図するそのままのかたちで読者の脳内に再構成されるものだろうか。現実に存在し得ないものを作者がありありと活写したところで、読者がほんの僅かにもそれを想像できないならば、それは恐怖の対象にはなり得ない。そして恐怖の対象は、そのすべてを理解できてはいけないし、まるで理解できないというのもいけない。距離感が重要なのだ。
 理解可能で想像し得ることが読書に必要であるならば、文章表現における恐怖描写は一度、理性のフィルターを通らねばならないということになりはしまいか。
 ここで重要なのは、読ませるには相応の文章でなければならない、ということだ。文章表現のいちいちに違和感を覚えて、なかなか先に進めず、読むのを途中でやめてしまった、なんてことを経験したことはないだろうか。

 文中の表現に違和感を覚えるということは、もしかしたらそれは間違った文章表現なのかもしれない。それは脳内で再構成する際に齟齬をきたしてしまう。間違った文章表現を排除しなければ、作者の意図するところは読者の脳内で再構成されなくなる。特に想像を大いに必要とする作品においては、作者の意図を正しく反映した文章が不可欠だ。「完全に清く正しく美しい日本語を使いましょう」と云っているのではない。読者の理解と想像の邪魔をしない文章を常に目指すべきなのだ。
 ハッ、今の文章がブーメランのように自分に返ってきた! 痛い、痛すぎるッ!
 さて、間違った文章表現は読書の妨げになるが、「間違っていなければそれでよいか」と云うと、これも断言できない。あまりに使い古されていて硬直した想像を読者に強いるような文章表現は、それはそれで作者の意図するところがうまく伝わらないかもしれない。いまどき「絹を裂くような」悲鳴はあげないのだろう。まるでリアリティを感じない。同じような理由から、美辞麗句満載の文章や比喩表現の多用は避けたほうがよいとは思う。これは自戒をこめて。

 恐怖は慣れるということと理性による働きかけが為されるということが、読書における恐怖体験に影響を与える。このことを述べるのに、これほどの文字数を費やさなければならないとは。いや、これだけ文字数を費やして、それでもなお云いたいことをちゃんと伝えられているかどうかあやしいものだ。そもそもは長編小説で恐怖の物語を紡ぐのは難しいということを云いたいが為に、言葉に言葉を重ねたのだ。必要以上に力が入ってしまった。
 文章表現における恐怖描写は理性によって一旦は検閲されるものだから、なかなかに感情に訴えかけることが難しい。また、恐怖はそれを催すような刺激に馴れてしまうので、恐怖に慄く時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。それでも掌編や短編のように短時間で読みきれるものならば、読者に恐怖を見舞う為に広げた風呂敷をそのままにして、勝ち逃げじゃないが読者を恐怖に慄かせたまま物語を閉じても許される。むしろ、恐怖の物語においては全てを説明しないのが正しい作法。説明が過ぎれば興趣が殺がれるし、そもそもが説明しきれないものなのに、それに対して無理矢理に既成の言葉を当て嵌めるのは愚行以外のなにものでもない。したがって以上の点からも、恐怖の物語はその分量を小さくするに越したことはない、と云える。
 しかし、世の中には長編の恐怖小説が存在する。長編にはその分量に見合うだけの結末が必要だ。長い時間とページ数を読者に付き合わせたのだから、相応のケジメをつけなければならない。つまり、物語のなかで大風呂敷を広げた場合、それは物語のなかで始末をつけなければならない。
 風呂敷の始末とは、言葉を尽くして読者を納得させるということであり、これは云ってみれば、十分な説明を施すということだ。"説明"と表現するのは語弊があるけれど、これはミステリにおける真相のように、最後まで明かされていなかった物語の実相を読者の前に提示するということだ。
 ここでジレンマが生じる。
 恐怖小説としては説明過多であってはならない。長編小説としては真相を明かさなければ物語を閉じられない。読者にとっては、予想通りの結末には物足りないし、かと云って地に足のつかないくらいに説得力のない決着には満足しない。「このカレーは辛すぎて食べられないけれど、辛くなければカレーじゃない!」ン? 比喩があまりにも不適当で、自分でもビックリだ!
「夜は一緒に散歩しよ」の作者は、如何にしてこの難題を解決したのだろうか。

 読者の興味を物語の最後まで持続させる為に必要な要素は、ひとつに旅であり、もうひとつは謎である。そもそも、物語とは結末へと向かう旅だ。謎に対してはその解決が用意され、そして謎解きとは過去への旅なのだ。作中登場人物による謎解きで導き出される真相とは、過去における実相であり、彼が辿り着くべき終着点である。謎と解決というとミステリを想起するだろうが、ミステリの専売特許というわけでは決してない。
 ミステリ的構造を用いることが長編の恐怖小説を成功させる唯一の方法ではないけれど、読者に恐怖感情を生じさせるのに有効であることは疑いがない。もちろん、圧倒的な説得力を持つ文章を武器に、正攻法で読者を彼岸まで押し切るといった作話術が長編恐怖小説においても未だ有効なのは当然のことだけれど、この手のタイプの作品ばかりとなるのもジャンルとして先細りするだけ。ミステリ的構造を持つ恐怖小説はひとつの方法であり、これとても特に新しいタイプというわけでもない。先行する傑作がその可能性を改めて示唆したことで、このジャンルに大きな影響を与えて可能性を広げたものと思われる。
 鈴木光司の出世作「リング」は、明らかに恐怖小説ではあるが、その構造はミステリだ。作者自身、このことを深く理解している筈だ。なぜなら、かの作品は横溝正史賞に応募されたのだから。恐怖小説の偉大なる先行作品がミステリの手法で書かれたことは、実に示唆に富んでいる。「リング」の映画化作品以降、同じような構造を持ったホラー作品が作られたことも、このことの証左となるだろう。
 破滅を回避する為に、怪異の正体を探る。真相に辿り着くには正しく推理しなければならず、正しく推理するには事実関係を正しく認識しなければならない。物事を観察し、その法則性について仮説を立て、実験したうえでその結果に仮説との齟齬が見られるなら改めて仮説を立て直し、このプロセスを繰り返すことで最後には真相を導き出す。
 恐怖小説の場合、物語における謎が解かれたとしても、それは読者に心地好いカタルシスのみを与えるわけではない。秘匿されるには何かしらの理由があり、真相が明らかになることで、読者はそれを知ってしまったが故の恐怖を覚えるのだ。
「リング」においては、山村貞子に象徴される呪いの謎が物語を牽引した。そして、主人公たちが錯誤を経て辿り着いたのは、増殖への渇望という真相だった。主人公は、そして読者は、呪いの本質を正しく認識して、ここで改めて慄然とするのだ。
 長編小説「夜は一緒に散歩しよ」もまた、物語のなかに幾つもの謎を用意している。特に、物語の根幹をなす謎は、これが解かれることでとてもユニークな仕掛けを浮かび上がらせる。作者ご自慢の仕掛けは、主人公と読者に声なき悲鳴を上げさせるほど。いやはや実に見事だ。
 仕掛けというのは、つまりは手段の具体化だ。ある目的を達成せんが為に手段が講じられ、それが仕掛けとして結実する。本作の作者は、作中の大仕掛けを正しく作動させる為に遠大にして綿密なる計画を立て、周到なる用意をもって読者を物語に招き入れた。ここに至って仕掛けは完成する。かくして作者の目的は達成される。

 長いッ!
『夜は一緒に散歩しよ』を読んだ。面白かったので作品について感想を垂れ流す。ただそれだけのつもりが、何がどうしてこんな流れになってしまったのか。ほとんど作品に触れないという体たらく。自分で自分の文章を制御できないなんて、まるで島鉄男じゃないか(瓦礫の山の王様だね!)。
 次回こそは「夜は一緒に散歩しよ」をちゃんと語るぞ、ジョジョォオオ!!

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