明日のために | HOME | 赤と白の鯨幕

マックス王国興亡記

amazon:[DVD] かいじゅうたちのいるところ 「かいじゅうたちのいるところ」を観た。
 マックスは小さな暴君だ。ペットの犬には圧倒的な身体能力の差をよいことに好き放題。除雪車が道をかいた雪が路肩に山を成したなら、雪山に穴を穿って"イグルー"をこしらえる。そこを根城に自分の相手をしない姉や彼女を遊びに誘うその友人たちを雪玉で襲う。先制の奇襲攻撃も多勢に無勢だ。マックスが雪の城に籠城すると、イグルーもろともペシャンコに潰されてしまう。頭のなかでは堅固な城であっても現実はただのイグルー。簡単に破壊されたことに傷ついたマックスは、その悲しみと怒りをどこにぶつければよい?
 雪にまみれ、感情のおもむくまま姉の部屋に突撃して暴れまわるマックス。ふと我に返ると、自分のしでかしたことの大きさに戸惑い、後悔する。とんでもないことをしでかしてしまった。どうしよう?
 マックスは母親が大好きだ。彼女は年長の娘のようには息子を扱わない。どんなに仕事が忙しかろうともマックスとふれあう時間を優先する。彼女が懸命に働くのも家族の時間を大切にするのも、母子家庭であることの引け目を子供たちに感じさせまいと考えているのかもしれない。
 マックスは母親を愛しているけれど、それでも気に入らないことはある。家に知らない男を連れ込んで仲良くしている母親を見るのは嫌だ。男がどんなヤツだかは知らないけれど、本当はとてもいいヤツなのかもしれないけれど、嫌なものはとにかく嫌だ!

 オオカミの扮装をして夕食の団欒を破壊したマックス。当然の如く母親に叱られて、そのまま家を飛び出した。

 子供にとって頭のなかにある物事は、紛れもなく現実の世界の一部だ。夢や想像は現実と地続きであり、彼らが望めば世界は無限の可能性を見せる。そして子供は子供であるかぎり永遠の冒険家であるから、いつまでも世界に遊ぶことができる。
 獣の勢いのままマックスが辿り着いたその場所には巨きくて力の強い先住民がいて、彼らはとびきりの存在だ。ぜんぜん普通なんかじゃない。
 破壊衝動を抑えられず、それを行動に移してしまうことで周囲から腫れ物を触れるが如き扱いを受けるキャロル。彼は誰にも理解されない哀しみをその暴力に込めている。そんな彼に共感したマックスは暗闇から飛び出してしまう。小さなマックスが未知の共同体へと入り込んだのは、キャロルに対して抱いた共感に背を押されただけではない。そこに素晴らしい冒険の予感があったからだ。
 先住民との邂逅の後、マックスは彼らの王たるを宣言して戴冠を許された。王の命令は絶対に服従しなければならず、そしてその命令はどれもが素敵に楽しいものばかりでなければならない。
 みんなでかたまって眠ったりみんなで一緒に住む砦を作ったりして、マックス王の治世は平和を齎したものとばかり思われた。しかし、それはほんのいっときのものにすぎない。

 変化は外部から現れた。KWに誘われたマックスは、彼女の友人に出逢う。ボブとテリーの云うことはまるで理解できなかったけれど、優しいKWの友達なのだからきっと仲良くなれるとは思ったしKWが乗り気だったので彼らを砦に連れ帰った。案の定、みんなはボブとテリーを歓迎した。ひとりを除いて。
 キャロルは悪い奴ではないし、何より彼とは一番最初に仲良くなった間柄。ただし、ときおり癇癪をおこすのが困りもの。マックスとキャロルはボブとテリーの言葉がわからないという共通点があり、また、大好きな相手をとられたような気持ちを共有する。そうは云っても、キャロルの好き勝手な振る舞いを許してはマックスの王国が立ちゆかない。王権の維持が難しくなる。

 王国の安定を守る為にマックスが号令したのは、戦争だ。内政に失敗した為政者は外敵の存在を声高らかに叫び、これに民衆の関心を向けさせる。定石と云えば定石だが、マックスの王国における戦争は、王国の住民が敵味方にわかれて泥ダンゴをぶつけあうというもの。KWを想うキャロルの為に、ふたりを仲良くさせようと考えたうえでのマックスの発案だ。
 他愛のない泥遊びも、その主体が規格外ならば規模もかわる。泥ダンゴと呼ぶには重量のありすぎる土くれがビュンビュンと飛び交うなか、あちらでは悲鳴が上がり、こちらでは傷を負うといった事態が続出する。最後にはふざけたKWがキャロルの頭を踏んでしまって、このアクシデントにキャロルがかんかんに怒る。こうしてマックスの目論見は潰えて、あとにはやるせない気持ちだけが残った。

 マックスにとって楽しい遊び相手だった筈のキャロルは、いつしか恐怖の対象へとかわっていた。キャロルは共同体を纏めるルールの必要を語るわりに、彼自身はルールからの逸脱を求める。すこしでも気に入らなければ暴力に訴える。自ら求めてマックスを王と認めたキャロルだったが、王の統治に不満を覚えればクーデターも辞さない雰囲気をかもす。
 ここにキャロルのジレンマがある。王としてのマックスは、キャロルが求めたルールの象徴だ。自ら認めたルールを遵守する一方で、相手がどんな存在であれルールに縛られたくない気持ちがわきたつ。彼は理性と感情とのバランスがうまくとれないものだから、ときに癇癪を起こす。きかん坊だ。

 マックスは王様じゃない。この世界に逃げ込んできた、ただの子供だ。
 自分勝手な気分屋で、機嫌が悪くなるとまわりのものを目茶苦茶にする暴れん坊。すべてを滅茶苦茶にした後、台無しになったありさまを見て心の底から後悔する。悪いことをした自覚はあるのに素直に謝れないし、後悔したにもかかわらず同じようなことを繰り返す愚か者だ。しかし、それが子供だ。その姿は、子供が頭に思い描く王様そのものかもしれない。自分のわがままがなんでも通る存在。
 本当の王とは全能の存在ではないし、全ての者が無条件にかしずく存在でもない。王は王としての責任があり義務がある。この点が大事。口先だけの王様だったマックスは、自分がただの子供であることを認めて、自ら玉座からおりることで本当の王になった。
 かくして共同体には賢王の残した権威がいつまでも輝いて、そして無意味な権力が駆逐された。

 本作において注目すべきは、かいじゅうたちの動きではない。もちろん、彼らの実在を信じたくなるくらいになめらかな動きは賞賛していい。着ぐるみの芸術が到達した輝かしい高峰に胸を熱くするのを否定しない。でも本当に目を奪われたのは、嫌なことを忘れてしまうくらいに懸命になって走るマックスだ。物語に感じる疾走感は、マックスの駆ける姿に同調している。また、心地好いカット割りに感嘆した。スパイク・ジョーンズという監督は、人の心の仕組みについてその大いなる謎を解いたか、あるいはこの謎といつも向き合っているかのどちらかだろう。
 主人公マックスを演じたマックス・レコーズの素晴らしさは走る姿だけではない。彼が見せる幾つもの表情はそのいずれもが身におぼえのあるものばかりで、かつて自分がこの顔に浮かべたことを思い出させる。
 本作はマックスの心の冒険を描いたものだけれど、その冒険は観客の誰しもが子供時代に体験するものだ。いつでも、どこにだってマックスはいるし、冒険はその扉をあけて子供たちを待っている。いま、この瞬間も、世界のどこかで冒険の幕があがっているに違いない。
 ここに至って、タイトルの秀逸さに気付く。なるほど、かいじゅうたちのいるところ、なのだな。

明日のために | HOME | 赤と白の鯨幕

Comments:0

Comment Form

Trackbacks:1

TrackBack URL for this entry
http://mescalinedrive.com/mt-tb.cgi/3
Listed below are links to weblogs that reference
マックス王国興亡記 from MESCALINE DRIVE
かいじゅうたちのいるところ from 象のロケット 2011-08-17 (水) 21:28
ママに怒られて家を飛び出した8歳の少年マックスは、ボートに飛び乗り海へと漕ぎ出した。 たどり着いたのは、見たこともない大きな体のかいじゅうたちのいる島だっ...

Home > マックス王国興亡記

Feeds
blogram投票ボタン フィードメーター - MESCALINE DRIVE 人気ブログランキングへ
Message
Visitor

Return to page top