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翻訳コンニャクおみそ味!

 島田紳助が芸能界を引退したことを契機に、その司会術を明石家さんまのそれと比較して語るはずが、前フリばかり長くてオチのない記事を書いてしまった! このブログではよくあることだ。
 書いてしまったのを悔いても詮無いこと。ここは改めて島田紳助の司会術を明石家さんまのそれと比較して語ってしまおう!

 この記事は、前回の「翻訳コンニャクおみそ味?」を踏まえている。いつものようにオチのない記事ではあるが、いちおう目を通しておいたほうがいいかも。いいかも!

 島田紳助と明石家さんまの"翻訳"術、つまり情報の加工方法だが、これは正反対だと前回記事の最後に述べた。正反対とは何か? 島田紳助は高きに引き上げて、明石家さんまは低きに引き下げることである。
 これだけではなんのことだかわけがわからない。"高き"って何? 同じように"低き"って何? 何を引き下げて、何を引き下げるの?
 個人的体験を語るエピソードトークと専門性の高いコメント、どちらも話者のなかでは筋道が通っているだろうが、他人にしてみればその筋道が見えない。島田紳助と明石家さんまが云うところのお茶の間、大勢の視聴者に対して話者の辿っている筋道を示すのに、彼らはその司会術によって視聴者の目線の高さを変えているのだ。そしてこの点こそに彼らの司会術の真髄がある。
 島田紳助は視聴者の話者に対する理解を高めるために、話者の語っていることを言葉を尽くしてわかりやすく説明する。それによって視聴者の理解レベルを話者のそれに近付けてゆく。理解が及べばおのずと共感を得られるようになる。これが視聴者を話者のレベルまで引き上げる島田紳助の"翻訳"術だ。まず理解させる、「なるほど」と云わせることが重要。
 明石家さんまは視聴者の話者に対する共感を得るために、誰しもがイメージしやすい単語をひとつ投げかける。それによって視聴者の話題についての認識レベルを引き上げる。イメージがつかめればおのずと理解はついてくる。これが話者を視聴者のレベルまで引き下げる明石家さんまの"翻訳"術だ。まず共感させる、「そういうのあるある」と云わせることが重要。
 どちらの"翻訳"術も個人的専門的な話題に対して平易でわかりやすい表現に噛み砕くという点で共通している。視聴者に伝えようとする意識も両者ともに持っている。ただ、方法論が違う。

 幾つもの番組で司会を担当していた島田紳助と、今も現役で担当している明石家さんま。二人の情報の加工方法の違いは、番組での話者とのやりとりを思い出すと納得できるはずだ。
 話者がひと通り語った後、島田紳助は「わかりますわかります」と入って、他の出演者やお茶の間に向かって「この方が仰っているのはこういうことなんですよ」とまず話題の本質を提示する。そして、話者の語った内容に則した説明を始める。最後に卑近な例を挙げて理解の間口を広げる。それまで噛み砕いた説明で理解を深めていた視聴者は、とどめとばかりに挙げられた例で笑って共感を抱く。
 明石家さんまは話者の話の途中でも口を挟む。「それはこういうことやな?」と具体的な例を挙げて他の出演者や視聴者のイメージを喚起する。「それは『タッチ』の南ちゃんと同じことやろ?」といったアニメのキャラクターや往年のスポーツ選手の名前を挙げるのを観たことはないだろうか? そのくせ笑いが起きたら「それでそれで? どうなったんや?」と次に進む。これは段階を踏んで話を進めて、視聴者の話題に対するイメージを固めさせているのだ。茶茶を入れられたかたちになるけれど話者がようやくひと通り語った後、「なんやねん! 今の話はこういうことやったんやないか!」とここで話題を短く纏める。「最初からこう云えばよかったんや」と決め付けるが、これには勿論のこと反論される。それに対して明石家さんま本人のフォローが入るし、他に芸人の出演者がいればこれもフォローする。ここまでが一連の流れである。
 こうしてみると、二人の"翻訳"術、情報の加工方法に数学の証明問題を思い出す。つまり、島田紳助は帰納的証明法、明石家さんまは演繹的証明法だ。
 島田紳助と明石家さんまがゲストを差し置いて喋り倒すのは、島田紳助においては視聴者を話者のレベルまで引き上げること、明石家さんまにおいては話者を視聴者のレベルまで引き下げること、これらが難しくてその分だけ言葉を費やしているのにすぎない。まさに言葉の暴走だ。引退した島田紳助はともかく、今後、明石家さんまがゲストより喋るのを観たら苦戦していると受け取るべきだ。

 島田紳助と明石家さんま。両者の方法に優劣はない。同じ方法論のもとなら優劣を競えるだろう。しかし彼らは方法からして違うのだ。そこに差異はあれど優劣はない。それぞれに頂点を究めている。
 ただし、話者にしてみれば島田紳助の方法を好むだろうことは想像に難くない。なぜなら、島田紳助は話者の語る内容をきちんと理解して、そのうえでそれを誰でもわかるように、しかも笑いをまじえて語り直してくれる。話者にとっては自分の拙い話術では痒いところに手が届いてなかったが、巧みな話術と司会術で理解を深めさせて、共感を呼び起こしてくれるのだから、ありがたいことこのうえない。
 島田紳助のそれに対して明石家さんまの"翻訳"術は、方法論として話者の語りを中断してしまう。小さな笑いを差し挟むことでその都度話題に対するイメージを強化するのだが、これは話者にとっては自分が笑われているように感じられる。笑われることに慣れてない者にはどうにも面白くない。
 この違いは二人の経歴の違いでもある。情報番組の司会を務めあげた島田紳助と、お笑い番組ひとすじに生きてきた明石家さんま。これも優劣はない。それぞれの生き方だ。

 ここまでは島田紳助と明石家さんま、二人の情報加工について優れた点を述べてきた。どちらも高い話術と司会術を駆使して日本でも有数の司会者として名を馳せてきた。そんな二人にも力の衰えは迫っていた。
 高い技術も気力が充実していればこそ。寄る年波には勝てず、己の確立した"翻訳"術を存分にふるえなくなっては空しいだけ。
 島田紳助の"翻訳"術の真髄は、世間の話題に対する理解度を話者の持つそれに近付けるべく引き上げる点にある。誰よりも先に話題の本質に迫り、これを解体して自分のなかで組み立てて、その過程をわかりやすい言葉で言語化する。これは疲れる行為だ。話者の語る内容が個人的にすぎて針が振り切っちゃってる場合や専門的すぎる場合、それに比例して島田紳助の労力は増す。また、高い理解度を必要とするため、島田紳助は常に勉強をしなければならない。安易に「わからない」とは云えない立場にいるのだ。
 明石家さんまの"翻訳"術の真髄は、話題に対するイメージを世間の持つそれに近付けるべく引き下げる点にある。話題に対して世間の持つイメージをすかさずつかむには、様々な物事に対して、世間がそれについてイメージしていることを把握していなければならない。これもまた勉強が必要。イメージに対するてんで的外れな具体例を挙げるわけにはいかないのだ。
 いやいやいや、島田紳助が「わからん」と突き放す、明石家さんまが的外れな例を挙げる。こういったことを観たことがあるというのなら、それは彼らがテクニックとしてあえて使っているにすぎない。後輩芸人のトークを拾わないという仕切り。番組を盛り上げるためのひとつの手だ。トークを潰された話者にとっては、冷たくあしらわれることで逆にオイシイ。
 仲間うちで作り上げる笑いは、数をこなすことで磐石になるが、それ故に司会者の緊張が緩む弊害がある。この弊害が如実に表れたのが、芸人人生晩年の島田紳助の出演番組だ。
 話題の持つ個人的特殊性や高い専門性を理解して解体して言語化する作業をこなすには気力を必要とし、これに番組収録のための体力が必要となる。これは疲れる。しかもこれを週に何度もこなさなければならないのだ、五十代半ばの男が。これが仲間うちから出た話題なら個人的特殊性は薄れ、専門性はなくなる。「おバカ」を相手の番組を続けていたのも同じ理由だ。そこに高い専門性はないので、世間の理解度を引き上げる労力が小さくてすむ。片手間とまでは云わないが、島田紳助がかつて誇っていた"翻訳"術の妙は見られなくなった。私はこれを勿体ないと思うが、こういう番組しかできなくなったのだとしたら、島田紳助をかわいそうだとも思う。
 明石家さんまにしても同じこと。仲間うちなら数多く共演することによってそれぞれにイメージを共有できる。イメージをつかんで、それに対する的確な具体例を自分のなかから引っ張り出す、なんて苦労をせずにすむ。イメージをつかめず、あるいは具体例の提示に失敗しても、仲間が助けてくれる。これもまた惜しい。
 島田紳助にしても明石家さんまにしても、それぞれの"翻訳"術で話者の語ることの本質を捉えられなくともかまわない。それらしく理解させて共感を呼んで、番組として成立したならそれでよかったのに。誤魔化しもきかなくなったのだろうか。
 思えば、島田紳助の引退はちょうど潮時なのかもしれない。明石家さんまが引退することも想像できないが、彼は千原ジュニアをゲストに迎えた自身の番組、「さんまのまんま」で六十歳になったら引退すると云ってのけた。これにはびっくりしたが、至極当然のような気もする。
 明石家さんまの"翻訳"術は彼自身に一般的な感性を持ち続けることを強いる。彼は話者が語るのを中断して、視聴者にイメージを喚起させる単語を放り込む。この単語が的外れならばイメージの喚起は果たされず、明石家さんまはわけのわからないことを云い出すオジサンでしかない。そして、感性というものは老いに影響を受ける。思い出してほしい。島田紳助と同期の明石家さんまは五十代半ばの立派なオジサンなのだ。還暦を迎えると完全なるオジイサンだ。無理だ。明石家さんまのキャラクターとしてあり得ない!

 二回にわたって島田紳助と明石家さんまについて、特にその司会術を取り上げた。今、島田紳助と明石家さんまから私は二人の芸人を思い出す。二人が二人とも内なる狂気と戦い、その結果として二人ともが芸能界を去った。
 上岡龍太郎と横山やすし。
 なにがなんでも自分で説明しなければ気がすまない上岡龍太郎。一瞬の閃きで本質をつかみとる横山やすし。島田紳助は上岡龍太郎の、明石家さんまは横山やすしの、それぞれの芸風を一端なりとも受け継いでいるように、私には考えられる。若き二人が関西で弟子っこをしていた頃から、それぞれが上岡龍太郎と横山やすしのどちらにもかわいがられただろう。そもそもが直の師匠ではない。それでも、上岡龍太郎と横山やすしの狂気が島田紳助と明石家さんまに流れ込んでいるように思えてならない。
 このことを思うと、上岡龍太郎と横山やすしのそれぞれの芸暦に要石のように鎮座する横山ノックの存在の偉大さを思うのみ。いやあ、ただの蛸ジジイじゃなかったんだねえ。

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