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あの鐘を鳴らすのはあなた

 2011年8月27日、江戸川区は地下鉄都営新宿線篠崎駅に隣接するしのざき文化プラザ内の篠崎図書館にて、講師に東雅夫氏を迎えての講演会、「東北の怪談文芸 ~杉村顕道を中心に~」が催された。
 今回はこのイベントについて書いてみる。
 ところで、私は鳥頭で知られている。三歩進んで二日ぶん忘れる。図書館には足を運んだしちゃんと講演を拝聴した。にもかかわらず意味の取り違いや記憶違いがあるだろう、人間だもの。鳥人間だもの。だから、発言者の意図を正しく反映していないかもしれないことを断っておく。こういうことなのでこの記事においては、誰の発言であろうとその内容についての責任は、一切を私に帰するものとする。

 東雅夫氏がまず語ったのは、今年に入ってその活動が注目されている「ふるさと怪談トークライブ」について。これはもともと「みちのく怪談プロジェクト」の一端であり、震災を契機に始まった、被災地復興を怪談文芸の現場から支援する活動と捉えられているが、これには誤解があって、実は昨年の時点で活動すること自体は決まっていたとのこと。
 昨年2010年は柳田國男『遠野物語』刊行百周年であり、東北を拠点とする出版社の荒蝦夷がそれを記念する本の刊行を計画。どうせなら本の刊行にとどまらず、なんらかのイベントをしようではないか。というわけで起ちあがった企画が「みちのく怪談プロジェクト」だ。この企画は関係各位の尽力と、地元マスコミに取り上げられたこともあって好評を博した。企画に集まった熱量をこのまま冷ますのは惜しい。これは2011年以降も続けようではないか。こんなふうに盛り上がっているさなかに3.11だ。
 震災があったことでその意味合いにも変化があっただろうが、むしろ企画の根本は変わらずに、よりいっそう強い思いが込められたように、私には感じられる。これは、日本全国の様々な地域で催されるイベントに東氏が必ず駆けつけるとのことからも窺えるというもの。頭が下がる思いだ。
 ちなみに、「ふるさと怪談トークライブ」ではお馴染みの募金箱が持参されたのだが、今回のイベントは公共の組織が主催ということで募金はNGだった。義のために千円札を捐てる用意があったのに、残念だ。

 講演中に上映された映像は、新進気鋭の怪談作家として活躍中の黒木あるじ氏撮影編集によるもので、スクリーンに映し出されたのは震災後の東北の姿だ。
 3月11日に起こった天災の影響ははかりしれず、東北に活動拠点を置く作家や出版社は自分たちの街に今なお残る爪痕と引き裂かれた命や想い、その痛みと向き合って、自分にできることは何かを常に考えているとのこと。
 ふだんは言葉の力というものに対して、全幅の信頼はおけないものの、それでも「ヤル時はヤルだろう」と頼もしく感じていたのが、黒木あるじ氏撮影の被災地からのビデオレターを観て頭を瓦礫でブン殴られた。
 容赦のない暴力にさらされた街の姿がそこにあった。俯瞰の映像に加害者のそれに等しい興奮があるとするならば、人の目線に立った映像には被害者の悲痛がある。テレビ報道で目にして脳裏に刻まれた、あの黒い波の脅威をいっとき忘れるほどの惨状は、暴力が去ってから地獄絵図が描かれるのだと思い知らされた。火葬を待つ亡骸が列を作り、日常を営んでいた家屋が余震のたびに崩壊してゆく。いつもは陽気な作家が押し黙り、若い魂にポスト震災の小説のあり方を語り、「書く」ということの是非を問う。

 こんなときに怪談もないもんだ。ふざけてるのか。そんな声も聞かれることだろう。不謹慎だ、と。
 東雅夫氏は語る。夏のお盆の時期は昔から生者と死者が交流を持ってきた。花火然り、盆踊り然り。花火とはつまり迎え火であり送り火である。その規模が巨大というだけ。盆踊りで笠を深く被り、あるいは手ぬぐいを巻くのではなく被るのは、あれはそれらで顔をかくすことで誰が誰だかわからなくして、帰ってきた死者が踊りの輪にまじっても気付かないようにするためだ。
 なるほど。楽しいところに人は帰る。暗くてつまらない場所に帰ったところでなにが面白いだろうか。帰ってきて損した、って思うわな。こちらがまず楽しむ。そこに帰ってきたのが一緒になって楽しむ。こういうわけね。最後の審判までそちらで待っててね、ってわけじゃない。帰ってきたときくらい、以前と同じように楽しもうよ!
 生者が喜び楽しんでいることこそが供養になるということ。怪談に関して云えば、死者が戻ってくる定型を持ち、このタイプは最後に迷える死者が成仏を果たす。つまり救済の物語なのだ。
 怪談は鎮魂の意味合いを持つとともに、過去の記録の伝承装置としての役割を果たす。このたびの震災でも津波に関して現地に残る伝承が、どの程度高くまで避難するかの指標となった。怪談として語り継がれることで生きる記録として残る。現在、被災地で語られる震災体験のなかに、まさに怪談としか云えないようなものがある。死者を、生者を慰める伝承が生まれているそうである。

 休憩を挟んで次に東氏は"ねぷた"について語る。
 ねぷた? アレ? ねぶたじゃないの?
 寡聞にして知らなかったのだが、弘前で行われるのが"ねぷた"、青森で行われるのが"ねぶた"だそうだ。両者の違いは名前だけではなく、山車の形態も祭りの性格も違うとのこと。講演前に配布された資料によると、"ねぷた"は出陣を、"ねぶた"は凱旋を模しているらしく、派手で陽気な"ねぶた"に対して"ねぷた"は勇壮で豪壮で壮凄とのことだ。山車の扇ねぷたの表には合戦絵が描かれており、裏の見送り絵には美人絵が。しかし、そのどちらとも陰惨な印象を禁じ得ない。盆の時期に催され、最終日には境界である水を目指す。大きな扇ねぷたは巨大な行灯である。つまりは送り火なのだ。

 最後は副題にあるように杉村顕道について、そのご息女を迎えてのトークが繰り広げられた。翠さんによる家族のみが知り得る顕道のエピソードのうちの幾つかは、霊感の「レ」の字もない私には唖然とするものだった。
 つくづく作家というのは羨ましい。死後も自分の作品が語り継がれ読み継がれ、年に一度どころではなく、著作を読まれるたびに生者の国に帰ってくる。求められて帰ってこられるのだから、死者冥利に尽きるとでも云うのだろうか。ああ、作者冥利か。

 もうすぐあの震災の日から半年が経つ。未だ心の傷の癒えてない人もいるだろう。復興の見通しのたたない人も。
 それでも生きているのだから、と立ち上がる。
 それにひきかえ、震災当日の私の被害と云えば、部屋に積んで山となっていた本やDVDが崩落した程度。被害と称するのもおこがましい。
 被災地復興に全力を尽くす方々に頭が下がる思いだ。思いだけじゃない。なにかをしなければならない。なにをすべきかわからないので、このブログで「みちのく怪談プロジェクト」やそこから派生した「ふるさと怪談トークライブ」の成り立ちを、そのイベントに数えられる東雅夫氏の講演会について取り上げることにした。あまり訪問者のいないこのブログなので効果は薄いだろうけれども、なにもしないよりはマシだろう。そうは云っても私が纏めたものだ。事実誤認があるだろうし、発言者の意図を正しく反映できてないところもあるだろう。下に関連するサイトのリンクを張っておく。ぜひ訪問してもらいたい。それが怪談の真髄に一歩近付くことになるのだから。
 これまでに全国各地で「ふるさと怪談トークライブ」は催されている。これからも開催が予定されている。ここまでの内容に興味を抱かれたなら公式サイトを訪ねてください。勿論、サイトだけじゃなくてイベントに参加されるのもよろしいでしょう。惨状を前に言葉をなくした作家や、言葉を生業とするプロフェッショナルたちの逆襲がきっと見られるはずです。咀嚼中に言葉を発せないのは当たり前のこと。消化した後は自分たちの手番だと云わんばかり。どのような出来事も自らの血肉にかえる作家が、「書く」ということの是非について今一度思いを巡らせて、それでも「書く」ことを続ける決意をしたのです。刺激的じゃないはずがない!
 やはり作家は羨ましい。

 そして今、鎮魂の鐘の空高く鳴り響くのを聴き、私もまた鐘を鳴らすひとりとなる。

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