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赤と白の鯨幕

amazon [DVD] ぼくのエリ 200歳の少女 「ぼくのエリ 200歳の少女」を観た。
 映画こそ観たけれど、原作小説を読んでいない。この点で本作について誤った認識をしているかもしれないが、それはそれでサテヒデオ的「ぼくのエリ」考としてこの記事を読んでいただきたい。
 吸血鬼として「在る」ということをどう捉えるか。それにはまず、吸血鬼とはどんな存在かを規定しなければならない。
 人間をゆうに凌駕する強大な力を有し、ときに霧や狼に変化すると伝説にある。条件付きではあるものの、その肉体は"不老不死"を誇る。
 ゾンビのように思考を失った存在というわけではない。ただただ新鮮な肉を求めてひたすらさまよい、あたかも餓鬼地獄に足をとられているのとは違う。言葉を使い、娯楽を解し、喜怒哀楽の感情を持つ。価値観はそれまでと一変するが、第三者に強いられて変節するわけではなく、魂のありようが変わるべくして変わるだけだ。その本質と表層から、彼らは"最凶の紳士淑女"と云える。
 血を唯一の糧とし、それが故に人間を狩って生き血を啜る。それは、空腹時にたまたま遭遇した人間を襲うという、一種のアクシデントとは違う。食物連鎖において人間の上位に立つ存在だ。人間に対する完全なる"捕食者"なのだ。
 日暮れから夜明けまで、その間は最強の称号をほしいままにし、恐怖と絶望をその身に受ける。まさに"夜の絶対君主"。
 ここに挙げた特性から、吸血鬼は人間の天敵であることがわかる。

 吸血鬼は弱い。前段でさんざその強さ、脅威を強調しておいてコレだ。てのひら返しも甚だしい。
 不老不死? これはそもそもが条件付きだ。心臓に白木の杭を突き立てられれば死ぬ。尤も、吸血鬼であることは既に死んでいるといえる状態であり、だから老いるも死ぬもないといえばそれまで。これを敷衍するならば、吸血鬼の最期は"死ぬ"ではなく"滅ぶ"だ。
 紳士のふるまいなど、絶対的優位に立っているとの認識が崩れれば、途端にそのメッキは剥がれる。汚れた魂の持つ卑しさや浅ましさがその相貌や所作に如実にあらわれる。これは血に飢えた際も同じだ。
 食物連鎖において人間の上位に位置し、人間唯一の捕食者という点はたしかに脅威だが、これとて穴がある。吸血鬼には生殖がない。ではどうやって増えるかというと、食事であるところの吸血行為が副次的効果を生む。人間の首筋に牙を立てれば、血を吸われている当人が吸血鬼になる。一度吸われただけで吸血鬼になるのか、それとも複数回必要なのか、複数回必要ならばそれは何回なのか。こういったことは吸血鬼を扱う作品によって異なるのでここでは控えるが、いずれにしてもふざけた勢いで増える。ゾンビほど無軌道に増えはしないが、それにしても基本はネズミ算式。昨夜まで食糧としていたのが今夜は同胞になるわけだから、需要と供給の関係が崩れる。世にもまれなる偏食の種族は、望むわけではない勢力拡大があれば、それとともに食糧事情の悪化に悩まされる。その先にあるのは種の滅亡だ。
 王とはいうものの、威光が通用するのは夜の間だけ。一旦太陽がのぼればたちどころに王座から転落する。太陽の光を浴びたなら体は燃え上がり、あとに残るは灰のみ。不老不死も形無しである。
 先に挙げた吸血鬼の特徴は、吸血鬼の持つ弱さと表裏一体となっている。そうなのだ。吸血鬼はむちゃくちゃ弱いのだ。

 吸血鬼は弱い。この真実を知って、吸血鬼のおそろしさを実感しつつもこれの庇護を自ら担う者が現れる。普通ではない。特にキリスト教社会において吸血鬼は神に仇なす存在だ。その吸血鬼にシンパシーを覚え、あまつさえ庇護するなんて!
 さて話はかわるが、吸血鬼といえば思い浮かぶ顔はアングロサクソンのそれだろうか?
 ベラ・ルゴシやクリストファー・リーといった、往年のドラキュラ映画によって刷り込まれたイメージが強いのだろうが、吸血鬼伝承の本場は東欧だ。だから吸血鬼の姿はアングロサクソンのものじゃなくて、スラヴのそれが尤もらしい。本作のエリは、主人公のオスカーが北欧系の外見をそなえているのに対して、スラヴ人のバタ臭い容姿を持つ。
 またエリは身なりに無頓着なところがあり、これも往年の吸血鬼のイメージとは異なる。ドラキュラ伯爵がマントを翻して近付き、被害者の首筋に牙を立てるその瞬間まで洗練された物腰を崩さないのに対して、本場スラヴの吸血鬼はその出自は農民だ。優雅さのかけらもないが、これは仕方がない。誰がエリに時代に見合った一般常識や教育を施す?
 身なりや所作、外見から導き出されるエリの出自。そこから推測するに、おそらく彼女は今日の12歳のそれと同程度の教育を受けていない。長い旅路のなかで身につけた知恵はあるだろう、滅ぼされぬための禁則事項もできたろう。それら経験則で得る以上の教育は受けられないだろう。旅の道連れもまたその多くは幼い時分よりの社会の逸脱者だから。

 吸血鬼を題材にとってはいるものの、本作は少年の物語である。
 少年でいられなくなった、おとぎ話を生きられなくなった、そんな男の物語だ。男はおとぎ話に居場所を失って、現実世界へとその身を墜とす。
 現実の世界に居場所を見失い、破壊衝動を抱えた少年の物語だ。少年はとびっきりのおとぎ話と出逢って、向こう側に渡ってしまう。
 おとぎ話の正体は吸血鬼。彼女は永遠の12歳だ。
 本作は"変わりゆく"ものに満ちている。人の営為も自然のあり様もうつろうのが道理。ソビエト連邦は崩壊し、愛し合った夫婦は別れ、季節は冬から春へと変わる。そして人は肉体的にも精神的にも日々成長してゆく。これらは誰にも止められない。変わりゆくもののなかで唯一変わらないのが、吸血鬼だ。
 12歳のまま長い時間を過ごしてきた少女は、少女であるが故に本来なら変化に満ちた日々を生きるはずだった。年相応の体験を経て女性となり、とうに人生を全うしていたはずなのだ。12歳の少女の持つ稚気とわがまま、長い長い逃亡と隠遁の生活によって身にしみついた諦観が、ともにひとつの個性に宿る。
 そんな少女だから、少年は惹きつけられるのだろう。彼も、彼も。そして、これまでに彼女と出逢っただろう、名も知らぬ彼らも。
 エリはかなり価値の高そうなイースター・エッグを所持している。作中ではぼかしているが、あれはインペリアル・イースター・エッグなのでは? だとすると、エリにはロマノフ王家かそれに連なる者の庇護を受けていた時代があったのではないか。この大胆な推測が当たっているとすると、この先に訪れるソ連の崩壊どころではない。ロシアの大地を駆け抜けた、政治体制の荒々しいまでの変遷。それをエリは眺めたことになる。ロマノフ王朝の滅亡もまた、"変わりゆく"ものの例だ。
 吸血鬼には庇護が必要だ。ましてそれが12歳の少女ならなおさら助けたくなる。思春期にさしかかった少年なら当たり前に抱く思いだ。そこにつけこむのが吸血鬼だ。もちろん、エリが意図してたらしこむとはいわない。性悪女の本性で年端もいかない少年に、人生を踏み外させているなどとは。ただ忘れていけないのは吸血鬼の特殊能力だ。吸血鬼はその瞳で人を魅了する。そういう力があるのだ。オスカーが連なる少年たちの列、彼らが何もかもを捨ててエリとともに行ったのは、これは弱い存在である吸血鬼が獲得した特質ではないだろうか?

 少年はやがて少年ではなくなる。出逢った当初、少女と肩を並べる程度だった身長は伸び、体つきもがっしりとして大人の男らしくなる。必要に迫られて血の調達方法はみがかれ、要らぬ関係を作らないような処世術を身につける。そうしているうちに鏡に映る自分に皺やたるみ、白髪を見つけ、薄くなった頭をなでて肩をおとす。いつの間にこんなことになったんだ? 背後を窺って溜め息をつく。自分はこんなに変わってしまったのに、彼女はいつまでも少女のまま。
 老いたらば狩りもうまくゆかなくなる。この狩りは、ほんのちょっとの失敗が命取りになる。次に狩られるのは自分たちだ。いや、老い先短い自分はいい。そのときの覚悟はできている。だが彼女は!
 エリは決して悪くない! 彼女だってなりたくて吸血鬼になったわけじゃないんだ!
 思うようにいかない狩りが否が応でも老いを感じさせる。少女が終焉のない未来をたどり、それに対する不安がある。そして、その道行きをともに歩めないことの悲しみが全身を包む。最近、少女が親しくしている少年に嫉妬し、同時にそろそろ潮時なのかとも思う。
 少年時代から変わることのない献身は、最後の最後で報われる。畏れもし望みもした、たった一度の首筋へのキス。狩りがうまくゆかずに飢えさせてしまった彼女へ、自分が与えられる最後のもの。老いた少年は最期まで献身を貫いた。
 本作にはもうひとり"少年"が登場する。気のおけない友人たちや恋人と時を過ごし、変化のない毎日を愛する男、ラッケ。いざとなれば父親の遺した切手を売って生活を立て直す。そんな頼りない見通しで"今"を楽しむ。
 てんで冴えない中年男であるラッケもまた少年だ。これは大人になりきれないという意味で未だに少年なのだ。仕事に就いてるようには見えず、酒とタバコは好きなだけ嗜む。恋人はいるが彼女への態度は男らしいと云えず、ズルズルと続いてるだけのようだ。
 将来の展望がないという点ではラッケのおとぎ話も同じ。現時点ではうまく回っているようでも、いずれは立ちゆかなくなる。父親の切手がどの程度の魔法を見せるかはわからないが、本当はラッケも自分で云うほど期待してないのではないか。
 かたや遠くない将来に破綻するラッケのおとぎ話、かたや長い時間を懸命に繋いできたおとぎ話。エリを戴くおとぎ話は、これを終わらせたくないばかりに自分の手を汚すことも、神の祝福を振り払うことも辞さない覚悟こそが紡いできたものだ。血と死とを踏みしめて進む覚悟を最後まで持ち得ない者が、なにと戦って勝つって? どちらのおとぎ話が飲み込まれるかというと、これは明らかだ。

 自分ひとりでは現実の世界と折り合いをつけられない。だから他者の庇護がなければ、どうにも立ちゆかない。それが吸血鬼だ。
 誰かと一緒にいても、常にその足元で孤独が口を開いて待っている。すべてに置き去りにされてしまう。それが吸血鬼だ。
 永遠を歩くが、そこにはなんの希望もない。ただただ長らえる為の今夜だ。それはこれまでがそうだったし、これからも変わらない。それが吸血鬼だ。
 おそろしくも美しい、哀しくも忌まわしい、そしてどうしようもないくらいに愛しく感じられる。それが吸血鬼だ。
 オスカーがどこまで覚悟を決めたのか今の時点ではわからないが、その生涯は楽しいことばかりじゃないはずだ。おとぎ話が必ずしもハッピーエンドを迎えないことを、彼は遠くない将来に気付くことだろう。自分が生き残るためではないのに、他人を手にかけなくてはならない日々。それでも、エリとともにいることをやめないなら、それはそれでひとつの生き方だ。
 ほんのちょっとだけ、彼や彼らが羨ましい。

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